津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

永蟄居--有吉大膳(立邑)殿

2009-10-27 17:33:50 | 歴史
 細川重賢と堀平太左衛門により、宝暦の改革が成されている最中、誠に不幸な事件がきた。
「家老有吉大膳といふあり、堀平太左衛門と意見を異にし、其の國政を談ずるに、毎に論破せられて、不平禁ずるに能ず、遂に憂鬱食を絶するに至る。是に於てその臣某、為に謀りて、公(細川重賢)と平太左衛門とを呪咀し、事露顕せしが、公の寛洪なる、有吉は累代の功臣たるの故を以て、特に宥恕して、大膳を幽居せしめ、其の臣某等を死に處せられしのみなりき」

 三卿たる家老が藩主を呪咀するというのは前代未聞の事件である。どうも大膳殿はノイローゼ状態であったのだろう。宝暦十二年のこととされるから、27歳位の年齢であったろうと思われる。跡式は弟立喜が継ぎ、それ以降は夫々の子供達が交互に跡を継いだ。

 寛政八年の大水害の時には大膳六十八歳、「有吉大膳殿兼て竹部屋敷の茶屋に蟄居にて御座候処、彼辺一入水深く候故、上屋敷より早速迎えとして船を被差越候。彼家に古より相伝にて一駄船と云物あり。急に取出し取組被差越由。(中略)此節も数艘取立て、大勢の家中を無難に取救被成候よし。世以て大に美談せり。扨付々の女童迄も是に取乗りこぎ退候処、坪井内は一入水勢強く候故、坪井広町の様に乗廻り被申候を、小原屋見受候て、水勢甚敷危く候間、是非粗宅の二階に被滞候様留め申候に付、其旨に任せ、翌朝に至り、上屋敷に着致候由」とある。このような時には流石に蟄居も一時解除という事になるらしい。四年後の寛政十一年死去した。七十一歳。
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引越し

2009-10-27 12:32:35 | 歴史
 あるサイトを見ていたら、我がサイトが「間違っている」との指摘があった。元・長曽我部氏の「町氏」についてである。当サイトの侍帳は川口恭子先生の「細川家家臣略歴」をベースにしているし、遡ると永青文庫の「先祖附」の編集に準じておられる。
長曽我部氏の「ちょう」を「町」とするようとの仰せで「町氏」を称したとされるが、「まち氏」と読むことは充分承知している。典拠を重視してきたが、しかし人様から間違っているといわれると片腹痛い。ならばと「ち」の項から「ま」の項に引越しすることにした。
 引越しの跡、少し大人気なかったかな~と、いささか反省である。
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