村山家の家紋は「抱き巴」であるが、マンモスの牙のようなものが左右から天頂に向って伸びている。なかなか雄大なものだが、いくら探しても家紋サイトでは発見することが出来なかった。その出自は薩摩である。家祖の三尾谷豊前(村山一斎)という人は、島津大隈守忠恒に二千石で仕えていたが、故あって肥後國に移住、忠利の入國の際に召し出されたとされる。何事があっての事かはっきりしない。
ja.wikipedia.org/wiki/島津忠恒
2代・七兵衛 三百石、
寛永十六年三月頃~(?)飽田詫摩郡奉行
寛文元年二月~寛文五年二月 小国久住郡奉行
3代・傳左衛門 三百五十石
4代・甚助・武清(軍大夫)
5代・傳左衛門・一英(養子 実・石松甚左衛門子 初・平蔵)
三百五十石 寛政三年九月~宝暦四年一月 奉行
江戸御留守居役行使・関東川筋修繕ニ当リ幕府ヨリ賞セラル
6代、九郎次郎(養子 実・町市郎右衛門弟)
高三百五十石
宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
奉行職にて江戸行使中乱心知行没収
7代、仁九平(養子 実・山戸彦兵衛二男 七兵衛・甚助)二百石
8代、七太郎(衛士右衛門) 二百五十石
9代、甚助 二百五十石
10代、四兵衛(傳左衛門) 二百石
宝暦の改革に於いての、村山九郎次郎の活躍が目を引くが、この改革の牽引車となったのが町氏(長曽我部氏)一族である。町市郎右衛門とその子孫平太、市郎右衛門の実弟・村山九郎次郎、従兄弟大里角次などである。夫々が奉行職を務めた。
■町市郎右衛門
宝暦十年十月~宝暦十三年 奉行副役・後十挺頭ニ転
■町孫平太
安永六年七月~天明五年七月 奉行副役
天明五年七月~寛政二年九月 奉行(被差除)
孫平太性甚だ酒を嗜む、或夜隣家の平井某の宅にて泥酔し、裸体に肩衣袴を着て帰宅
する程なりしが、翌日早朝政堂に出て、事を処するや、判断流るゝ如く、少しくも滞ること
なかりきとぞ、然れども之に因りて職を免ぜらる
寛政十年七月(大組付)~寛政十一年三月 中小姓頭
寛政十一年五月~文化十一年七月 奉行(致仕後隠居)
■村山九郎次郎
宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
* 御知行被召上候 宝暦七年十二月上知 高三百五十石
(奉行職にて江戸行使中乱心知行没収・・細川霊感公より)
■大里角次(阿蘇氏)
安永二年八月~安永六年五月 奉行副役
安永六年五月~天明五年三月 奉行
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2代・七兵衛 三百石、
寛永十六年三月頃~(?)飽田詫摩郡奉行
寛文元年二月~寛文五年二月 小国久住郡奉行
3代・傳左衛門 三百五十石
4代・甚助・武清(軍大夫)
5代・傳左衛門・一英(養子 実・石松甚左衛門子 初・平蔵)
三百五十石 寛政三年九月~宝暦四年一月 奉行
江戸御留守居役行使・関東川筋修繕ニ当リ幕府ヨリ賞セラル
6代、九郎次郎(養子 実・町市郎右衛門弟)
高三百五十石
宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
奉行職にて江戸行使中乱心知行没収
7代、仁九平(養子 実・山戸彦兵衛二男 七兵衛・甚助)二百石
8代、七太郎(衛士右衛門) 二百五十石
9代、甚助 二百五十石
10代、四兵衛(傳左衛門) 二百石
宝暦の改革に於いての、村山九郎次郎の活躍が目を引くが、この改革の牽引車となったのが町氏(長曽我部氏)一族である。町市郎右衛門とその子孫平太、市郎右衛門の実弟・村山九郎次郎、従兄弟大里角次などである。夫々が奉行職を務めた。
■町市郎右衛門
宝暦十年十月~宝暦十三年 奉行副役・後十挺頭ニ転
■町孫平太
安永六年七月~天明五年七月 奉行副役
天明五年七月~寛政二年九月 奉行(被差除)
孫平太性甚だ酒を嗜む、或夜隣家の平井某の宅にて泥酔し、裸体に肩衣袴を着て帰宅
する程なりしが、翌日早朝政堂に出て、事を処するや、判断流るゝ如く、少しくも滞ること
なかりきとぞ、然れども之に因りて職を免ぜらる
寛政十年七月(大組付)~寛政十一年三月 中小姓頭
寛政十一年五月~文化十一年七月 奉行(致仕後隠居)
■村山九郎次郎
宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
* 御知行被召上候 宝暦七年十二月上知 高三百五十石
(奉行職にて江戸行使中乱心知行没収・・細川霊感公より)
■大里角次(阿蘇氏)
安永二年八月~安永六年五月 奉行副役
安永六年五月~天明五年三月 奉行