津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・村山氏

2009-10-13 13:09:15 | 歴史
 村山家の家紋は「抱き巴」であるが、マンモスの牙のようなものが左右から天頂に向って伸びている。なかなか雄大なものだが、いくら探しても家紋サイトでは発見することが出来なかった。その出自は薩摩である。家祖の三尾谷豊前(村山一斎)という人は、島津大隈守忠恒に二千石で仕えていたが、故あって肥後國に移住、忠利の入國の際に召し出されたとされる。何事があっての事かはっきりしない。
     ja.wikipedia.org/wiki/島津忠恒

 2代・七兵衛 三百石、
        寛永十六年三月頃~(?)飽田詫摩郡奉行
        寛文元年二月~寛文五年二月 小国久住郡奉行
 3代・傳左衛門  三百五十石
 4代・甚助・武清(軍大夫)
 5代・傳左衛門・一英(養子 実・石松甚左衛門子 初・平蔵)
        三百五十石 寛政三年九月~宝暦四年一月 奉行
        江戸御留守居役行使・関東川筋修繕ニ当リ幕府ヨリ賞セラル
 6代、九郎次郎(養子 実・町市郎右衛門弟)
        高三百五十石
        宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
        奉行職にて江戸行使中乱心知行没収
 7代、仁九平(養子 実・山戸彦兵衛二男 七兵衛・甚助)二百石
 8代、七太郎(衛士右衛門) 二百五十石
 9代、甚助  二百五十石
 10代、四兵衛(傳左衛門)  二百石

宝暦の改革に於いての、村山九郎次郎の活躍が目を引くが、この改革の牽引車となったのが町氏(長曽我部氏)一族である。町市郎右衛門とその子孫平太、市郎右衛門の実弟・村山九郎次郎、従兄弟大里角次などである。夫々が奉行職を務めた。

     ■町市郎右衛門
       宝暦十年十月~宝暦十三年 奉行副役・後十挺頭ニ転

     ■町孫平太
       安永六年七月~天明五年七月 奉行副役
       天明五年七月~寛政二年九月 奉行(被差除)
         孫平太性甚だ酒を嗜む、或夜隣家の平井某の宅にて泥酔し、裸体に肩衣袴を着て帰宅
         する程なりしが、翌日早朝政堂に出て、事を処するや、判断流るゝ如く、少しくも滞ること
         なかりきとぞ、然れども之に因りて職を免ぜらる
       寛政十年七月(大組付)~寛政十一年三月 中小姓頭
       寛政十一年五月~文化十一年七月 奉行(致仕後隠居)

     ■村山九郎次郎
       宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
       * 御知行被召上候 宝暦七年十二月上知 高三百五十石
       (奉行職にて江戸行使中乱心知行没収・・細川霊感公より)

     ■大里角次(阿蘇氏)
       安永二年八月~安永六年五月 奉行副役
       安永六年五月~天明五年三月 奉行 

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八代蜜柑

2009-10-13 08:50:34 | 歴史
 歴史上「みかん」といえば、江戸で大もうけした紀伊国屋文左衛門の名前が頭に浮かぶ。みかんは紀伊国の特産のように思われるが、その元は肥後八代の高田(こうだ)のものである。天正二年伊藤某が高田から苗を購入した記録が残されている。
 細川家はこの「八代蜜柑」を、将軍家や幕閣、朝廷や公家、有力大名、縁戚などに幅広く贈物として活用している。

 上妻文庫に「八代蜜柑」という表題の文書が5冊ほど残されている。慶安三年から寛政五年迄の八代蜜柑の献上の記録である。これは上妻博之氏が昭和35年から2年余の歳月をかけ、関係文書466巻から記事を採取された膨大な記録である。毛筆で認められたこの貴重な記録は、単なる贈物の記録としてではなく、政治や人の動向、交通・運輸のありかたから、気候の変動など多くの情報を含んでいる。

 冒頭に上妻先生は次のように記されている。
享保三年の記事にあるように八代蜜柑の献上は毎年数回行はれたようであるが、江戸状扣慶安三年の項には三番立迄献上してあるが、享保三年から毎年一回となった。安永八年迄は藩の奉仕で輸送したけれども輸送が円滑に行かぬので幕府の證文を貰って筑後國原町から江戸白金の細川邸迄輸送する事となった。八代蜜柑の献上箱数は本丸(江戸城)に五百個入二十箱、西丸に五箱の定まりであったが、宝暦五年球磨川大洪水の為蜜柑木二百株余り流失したので本丸に十箱、西丸に三箱となり、其後蜜柑畑の整備が出来て天明元年頃から本丸二十箱、西丸五箱献上する様になった。八代蜜柑は他の献上品と違って大事に取扱はれたもののようである。

 後書きを読むと、上妻先生はこの時期白内障で失明の恐れがあり、この筆記の断念を覚悟されていたようだ。「神の御栄の現はれん為なり」という言葉を引用して、全てが完了した事に感謝しておられる。日頃上妻文庫の存在を大変ありがたく思っているのだが、このような先生のご苦労を洩れ知ると、なんとか活字化されないものかと心から願うのである。

 みかんの美味しい季節になった。
コメント (2)
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