津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

織田信長 最後の茶会

2009-10-09 16:54:29 | 書籍・読書

織田信長 最後の茶会 (光文社新書)

「本能寺の変」前日に何が起きたか
著者:小島 毅
出版社:光文社
価格:780円+税


【本の内容】
本書は、本能寺の変について「東アジア」という視点から考察を加えていく。私の本業は東アジアの思想文化についての研究である。したがって、室町時代の政治史に関しては門外漢であり、単なる「愛好家」にすぎない。だが、信長の「変」前日の行動をめぐる従来の研究・叙述のほとんどが、視野を日本国内に限定していることに対して長いこと違和感を懐き続けてきた。十六世紀後半の世界情勢のなかに「天正十年六月一日」を置いて眺めてみると、同時に存在していたさまざまな動きが見えてくる。

【目次】
  プロローグ-本能寺の変とその前日
第1章 信長はどう描かれてきたか-天皇との関わり
第2章 本能寺の変の黒幕候補たち
第3章 永楽銭、石見銀山、倭寇-東アジアの経済交流
第4章 安土城、名物茶道具-信長と唐物
第5章 東アジアの暦と太陽暦、太陰暦
第6章 明暦と日本
第7章 宗教と信長王権
  エピローグ-そして太陽暦が採択された

【著者情報】
小島 毅(コジマツヨシ)
1962年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、東京大学人文社会系研究科准教授。専攻は、儒教史、東アジアの王権理論。文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」(2005~2009年度)の領域代表
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「こう姫さま」に会えますよ

2009-10-09 15:51:33 | 熊本
 熊本県立美術館・永青文庫展示室が今日から展示替えとなった。

http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20090911_Renaissance/index.html

 今日10月9日から12月24日まで、「華ひらくルネッサンス-肥後文化の黄金期」と銘打っての、細川斉茲時代を中心とした展示である。斉茲筆による、四歳で夭折したあの可愛らしい「耇姫(こうひめ)像」が展示される。近々早速出かけたいと思っている。みなさまもどうぞ。

 又、「講座 細川コレクション」が下記要領で行われる。
      11月7日(土)13:30~15:00
     「細川斉茲と肥後の陶磁器」 
      講師:八代市立博物館未来の森ミュージアム 福原 透氏
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綱利の苦悩

2009-10-09 11:57:17 | 歴史
               +--與一郎 元禄十三年死去(14歳)
               |
               +--吉利  宝永三年死去(18歳)
               |
 光尚---+--綱利---+=============宣紀       
      |       |          宝永五年綱利養子 正徳二年家督(32歳)
      |       |
      |       +--女子 養女を含み9人
      |       |
      |       +--吉(眞性院)
      |          ∥元禄四年婚姻 同十二年眞性院死去(27歳)
       +--利重---+--利昌
              |
              +--------利武(宣紀)

 こうして綱利に係わる略系図を書いてみると、綱利の苦悩を見る思いがする。男子二人が誕生しているが、長男與一郎を14歳で亡くし、二男吉利は婚姻が約され従四位げ侍従に叙任されたが18歳で亡くなった。その悲嘆は如何許りであったろうか。新田藩の利昌の元に嫁いだ女・吉も同時期に亡くなっている。
 綱利はその後、徳川綱吉の側用人・柳沢吉保の男子を養嗣子にしようと画策する。吉保の了解は得られたとされるが、老中稲葉氏の反対で頓挫する。その結果として甥の利武(宣紀)の養嗣子が決まるのである。その間の心情はいかばかりであったかと、推察するに余りある。
 
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細川家家臣・高見氏

2009-10-09 09:54:56 | 歴史
   和田但馬守
   和田兵衛尉
 1、和田少(庄)五郎・重治(高見権右衛門)
        江戸江相詰衆 「丹後」和田 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・高見権左衛門
     始ハ大和大納言秀長の小姓なりしを御もらい被成、文禄二年弐百石被下、関原事の
     後忠隆君の御供仕加賀に罷越、高野山にて御剃髪の後筑前中納言ニ居、秀秋御卒
     去の後浪人いたし候処、慶長十六年帰参、五百石拝領なり、御番頭被仰付、其砌高
     見権右衛門と改、高見ハ母方の名字なり
     阿部兄弟仕者被仰付たるハ右権右衛門子の権右衛門なり(綿考輯録・巻十四)
 2、高見権右衛門
       (1)鉄炮頭 三百五十石 御側弓鉄炮頭并組外衆 (肥後御入国宿割帳)
         阿部一族誅伐に当り裏手門よりの討手被仰付、後加増三百石
       (2)御使番衆 八百弐拾壱石四斗 (真源院様御代御侍名附)
       (3)八百二十一石 (真源院様御代御侍免撫帳)

 和田氏について調べているが良く判らない。高見氏というのは母方の名乗りだというが、これも良く判らない。高見氏の名を高らしめたのは、何と言っても阿部一族誅伐の討手を仰せ付けられてのことであろう。三百石の加増とは戦場での高名と同様のことである。一気に高禄の士となった。そして後代、用人などを務める人が出、加禄されている。

 二代権右衛門の兄弟である少(庄)五郎の家系が有る。どうもこちらが嫡流なのではないか、先祖附が手元に無くて確認できないでいる。

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