津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅱ

2009-10-18 18:22:03 | 歴史
馬方 捧庵二度目の上書

  二度目之目安
    上申候三ヶ条之書付理之事

一、肥後守祝言ゆい入之儀、御輿請取之事相談ニ不付、美作守ほしきまゝの事
一、斎藤采女と申者、秀頼おち右京大夫、おいなから子ニ仕候、古肥後守かゝへ召置候、
   先年大坂籠城之刻、大坂江走入申候、彼者、美作守・丹後守・周防守引廻シ申者ニ
   御座候故、大坂江采女はいり候跡、知行万肝煎遣候事    
一、木村長門守弟左兵衛と申者、古肥後守時より召置候、大坂被 仰事之時、長門守弟之
   義ニ御座候間、大坂江走入候義可有之と、加藤丹後守ニ両度迄心付仕相届申候処、丹
   後守目をかけ申者之事候間、はしらせ申間敷之由、慥請乞候へ共、次之年御陣之刻、
   大坂江走入申候、旁以美作守親子、逆心之様ニ御目付衆も御覧被付ニ付而、拙者ニ被
   仰聞段御座候事
一、大坂申事之砌、肥後守船共兵庫江廻シ申候、大船三艘舟子無之付而大坂川口残置候、
   右馬允申付、引出させ候歟、出候事於不成者焼わり候様ニと申候処ニ、丹後守、秀頼ニ
   左程にくミを請候事不入事と達而申、吉村橘左衛門・相田内匠其座ニ居申候、丹後守同
   前ニ橘左衛門も申ニ付、多分背かたく船其儘置候事
一、下川古又左衛門所ニ而、年寄共寄合之刻、立身を存候ハゝ証人を可捨と、美作守親子
   誓文ニて申候事
一、美作守太閤譜代之者ニ御座候、其上関ケ原之時、被成御改易候橋本掃部・寺西伊豫
   (次郎助)・伊(生)駒主水・新宮安房守か様之者、別而美作親子目をかけ申候、其内新
   宮相果候跡ニ、大坂江遣状出候、此外国侍返(迄カ)引入之事
一、橋本掃部・井上茂大夫公事之儀ニ付而、去月霜月ニ目安肥後主上申候処、玉目丹波
   請取、周防ニ相渡、美作親子計ニ申聞、残年寄二ハ当年二月二申聞せ候、如此之仕合
   不相届候様ニ存候事
一、桑原少斎と申者、何茂年寄共談合ニて国を払候処ニ、残年寄共も不存、今迄国ニ居申
   候、美作守親子・周防守・備中守ハ存召置候事
一、和田備中守、中川周防守妹縁辺之儀、古肥後守申候筋目相違之事
一、丹後守知行高違之事
一、玉目丹波守ニ知行遣候時、国中えり取ニ仕候、古肥後守給人之知行取上、蔵人ニ付
   仕候をも遣候、此知行所二ハ段々申分御座候事
一、丹波守新屋敷申候普請之儀、家中役目之者并諸百姓ニ申付こし大垣外かいまてつき
   まはし、杣とめ仕候山をも切あらし、材木とらせ并植付迄も諸百姓ニ申付、数人つかひ
   候故、百姓迷惑候事
一、柴山五兵衛と申者ニ、知行高二百五拾石あき跡可遣之候旨、肥後守被申出し(候)、
   然所三百余遣候、此段美作守親子、丹波ハ存、残年寄共ハ不存候、山岡杢太夫と申
   者、不相届儀御座候て、肥後守知行取上召置候処に、于今至而所務仕候、美作親子・
   周防目をかけ候者ハ、か様之仕度尽之儀数多御座候事
       (天和四年)
          七月廿三日           捧庵

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加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅰ

2009-10-18 11:37:15 | 歴史
 加藤家公事言上書・処分書 「向山誠斎丙午雑記」 新熊本市史資料編第三巻より

 ■馬方 捧庵上書(第一回)
   謹而言上仕候
一、肥後守(加藤忠廣)年寄六人之内四人同心、美作守親子ハ一所ニて諸事談合之砌も
   多分ニ付不付(申カ)、依怙のミ申通り、下々迄弐ツニ罷成候、然遠国と申、方々境
   目二て御座候へハ、自然之時、上様御用之砌も肥後守家中互ニ身かまへニて、御奉
   公之筋目はか/\しからす御座候へハ、肥後守為ニも不罷成と存候事
一、大坂一巻砌も、上様江肥後守抽御奉公仕せ申度と存候者共ハ、美作守親子ニ対而
   機遣仕候、其子細重々御座候、其砌之御目付衆、定而被及御覧之儀可有御座之事
一、美濃(作)守親子、肥後守おち玉目丹波守、此三人肥後守為ニも不罷出(成カ)、依怙
   のミ仕、 上様江肥後守御奉公之道も相違仕と存、左様之儀、拙者申ニ付、肥後守さ
   ゝへ、万事隔心を仕様ニ罷成候、私儀、上様御厚恩おろそかに不存候へハ、彼者共
   依怙仕候儀ニもかまひ不申、成次第奉公仕義ニて無御座候間、兎角肥後守ニ暇を乞
   申候、何も国之年寄共一列ニ被 召寄、善悪之様子被 聞召、何之道ニも片付於被
   仰付者、肥後守御奉公之筋目も成立可申かと奉存候、御穿鑿之砌者罷出、如何様ニ
   も年来存之通可申上候、以上
      (元和四年)
       五月十一日                  捧庵
          酒井雅楽(忠世)殿
          本多上野助(正純)殿
          安藤對馬(重信)殿
          土井大炊助(利勝)殿

牛方 加藤美作守・丹後守の、棒案目安に対する公儀宛返書

   捧庵上申候目安ひらき事
一、多分ニ不付と申上候事、何茂相談之上ニ而連判を以申付候間、多分ニ不付と申候
   儀無御座候
一、万事依拈仕之由、身ニ覚無御座候、玉目丹波事、ひらき時分ニ可申候事
     (元和四年)
        七月廿七日               加藤美作守
                              加藤丹後守
          酒井雅楽殿
          土井大炊助殿
          安藤對馬殿
          本多上野助殿
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   謹而言上仕候
一、今度捧庵立のき申候様子申上候、肥後守家中之者共、他所江参候儀、肥後守ニ不
   理参候事、堅法度申付候処、捧庵子共、肥後守ニ不相理罷出候二付しかり申候、然
   共、相田内匠助、玉目丹後(波)守、加藤丹後、両三人詫言申ニ付、余火ニ相替、捧
   庵子共之儀候間、今度ハゆるし候由、相田内匠助ニ申付、捧庵ニ申聞候処、捧庵申
   候者、子共ハ夜前屋敷ヲ立のき申候、●(此辺誤脱アラン)惣別肥後守此節暇をもらひ
   可申之由、内匠助ニ申候、内匠助達而異見申候得共捧庵合点不仕、剰肥後守物書
   渋谷三郎兵衛と申者、小姓伊藤吉太郎と申者、捧庵の(めカ)しつれ立のき候事
一、慶長十九年、大坂籠城之刻、肥後守帰城仕候時、京都ニ本多上野(正純)殿御座候
   間、捧庵使ニ遣被申候処、国本江下着仕、年寄中老共、下川又左衛門(元真)所江
   よひよせ、捧庵申渡候者、肥後国御仕置、本多上野殿被仰候ハ肥後守出陣之供、年
   寄之内二ハ、加藤丹後守(正長)出陣供、年寄内二ハ加藤丹後壱人、熊本之留守下
   川又左衛門、八代之城代加藤右馬允、佐敷之儀加藤與左衛門(重次)、関之城丹後
   守留守ニて候間、熊本より加藤美作守罷越、留守可仕之由申渡候間、何茂奉得其意、
   弥右之通相究申候、然処ニ、右之段々、本多上野助殿御聞被成、肥後国仕置之儀、
   捧庵ニ不被仰渡之由ニ候、其以後上野殿より肥後国仕置之儀、年寄中談合を以可仕
   之由、御状被下候、か様之大分之茂(義カ)捧庵つくり事申す儀不審ニ存候事
一、江戸江肥後守罷越候時、供仕候年寄共、肥後守銀子取候而つかひ可申之由申候へ
   共、加藤丹後守同心不申候二付、残ル年寄共も取不申候、かやう成義を多分ニも不
   付と申候哉之事
一、肥後守銀子を、年寄共之内、年々ニ過分ニ借遣、終返弁無之ニ付、加藤美作守申候
   ハ、年をきり候て、返弁仕候様ニと申候、左候ハすハ利足を加出し候様ニと申候、万事
   ニ付、肥後守為不罷成候間向後物取申度躰見及候間、左候へは肥後守為不罷成候
   間、向後者、分限ニ応し借候様ニと、美作守達而申候二付、其分相定候、か様之儀も
   多分ニ付不申候と申候哉之事
一、肥後守祝言被仰付候、則美作守使ニ参候二付、銀子百枚、年寄共分別ニて渡し候へ
   ハ請取不申候、祝儀小袖計取申候事
一、加藤美作守無足之時、残年寄共談合ニ而、米千石遣候由申由候へ共、存様子御座
   候へハ請取不申候事
一、下川又左衛門・中川寿林、相奉行ニて、預り蔵之算用九千石ニをよひ滞御座候、此内
   多分又左衛門手前御座候事

     七月廿七日               加藤美作守
                           加藤丹後守
          酒井雅楽頭殿
          土井大炊助殿
          安藤對馬守殿
          本多上野助殿

  
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細川家家臣・真下氏

2009-10-18 08:59:19 | 歴史
 家祖沢井対馬守は足利将軍義輝公に仕、「御生害之時同戦死」(綿考輯録・巻九)した。

対馬守子・梶之助元重は真下と改姓  
   *大和国真下ニ居住、一色之招ニより来て家老職となる
   *一色義有被討果候節、何として宮津を切抜候哉、弓木を心掛、東より登り峠にて
    米田(助右衛門)に行逢候、米田と真下は常に睦かりけるか、真下此時も詞をかけ、
    今日の次第とかういふに及はす、他人の手にかゝらんより貴殿と死んこそ本望なれ
    とて刀抜く、助右衛門ハ鑓にて互に馬上より挑ミ合、やかて真下を突通す、真下懇
    に城中の事を頼ミ死し、米田も落涙して領掌いたし候(中略)
   *助右衛門一言の約束もたしかたく、真下か妻子弟四人を育ミ置、男子七之助を御家
    人となし三百石被下、後七兵衛と云、其子孫今の真下喜角なり

    1、七之助(七兵衛) 
       (1)乗物かき小者頭 三百石 「丹後」  
           父ハ一色義有(臣・脱カ)真下梶之助元重(於豊前小倉御侍帳)
       (2)御側御弓鉄炮頭并組外衆 三百石 乗物昇小者頭(肥後御入国宿割帳)
                細川綱利公御書出(天和三年)三百石
    2、七兵衛   
       (1)有吉内膳組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳) 
       (2)御詰衆・六番岩越忠右衛門組 預知・三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、源太兵衛・元蕃、元寄
    4、源太兵衛(梶九郎)  三百石 御側弓十張頭鉄炮頭 屋敷・内坪井
    5、梶之助   御中小姓役 三百石
    6、七兵衛(梶之助)  着座之嫡子(梶之助嫡子)
    7、亀角
    8、亀之允(源太兵衛)御物頭列・町方御奉行触 高橋町奉行 三百石
           文化十三年(作事所目付)~文政五年十月 高橋町奉行
           文化十二年十一月本役 後、作事頭ニ転
    9、軍之助
    10、亀之助(梶之助・敬次)  御使番 三百石


 ■梶之介弟・沢井小八郎重包松井家家臣となる (家系永代記録・大和澤井家 1995澤井元生著)
 ■元重か姉ハ忠興君の妾となる、式部寄之ハ此腹也(名ハさい、後長岡勘解由延元ニ嫁す、
  五百石被添遺候                (綿考輯録・巻九)

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