揺台院とは細川治年室・埴姫である。治年亡き後(天明七年)は、揺台院の実弟立礼が宗家を相続(斎茲)した。揺台院はその後、二本木御邸で生活したらしい。そして斎茲の二男煕吉を預かっている。煕吉は寛政二年の生まれだが、生母の芳澤氏が翌年に亡くなっている。そんなこともあっての事かと思われる。
寛政八年熊本は未曾有の大水害に見舞われている。(昭和28年の大水害よりひどいのかもしれない)揺台院と煕吉が住まいする二本木御邸の消息が分からないため、游泳に巧みな加来衛門七が命じられて、泳ぎだしその安否を尋ねられた。彼は二本木御邸の無事を確認すると、高橋まで泳ぎ下り救助の為の舟の手配をすると、濁流の中を泳ぎ帰ったという。(往復10キロ程か)
その翌年煕吉が亡くなっている(七歳)。若くして治年と死別した揺台院は、煕吉を我が子の如く育んだものと思われ、その死は大きな衝撃であったと思われる。七年後の享和三年、揺台院もこの二本木御邸でなくなった。(四十九歳)
寛政八年熊本は未曾有の大水害に見舞われている。(昭和28年の大水害よりひどいのかもしれない)揺台院と煕吉が住まいする二本木御邸の消息が分からないため、游泳に巧みな加来衛門七が命じられて、泳ぎだしその安否を尋ねられた。彼は二本木御邸の無事を確認すると、高橋まで泳ぎ下り救助の為の舟の手配をすると、濁流の中を泳ぎ帰ったという。(往復10キロ程か)
その翌年煕吉が亡くなっている(七歳)。若くして治年と死別した揺台院は、煕吉を我が子の如く育んだものと思われ、その死は大きな衝撃であったと思われる。七年後の享和三年、揺台院もこの二本木御邸でなくなった。(四十九歳)