津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

寛政八~九年揺台院様

2009-10-26 19:27:40 | 歴史
 揺台院とは細川治年室・埴姫である。治年亡き後(天明七年)は、揺台院の実弟立礼が宗家を相続(斎茲)した。揺台院はその後、二本木御邸で生活したらしい。そして斎茲の二男煕吉を預かっている。煕吉は寛政二年の生まれだが、生母の芳澤氏が翌年に亡くなっている。そんなこともあっての事かと思われる。

 寛政八年熊本は未曾有の大水害に見舞われている。(昭和28年の大水害よりひどいのかもしれない)揺台院と煕吉が住まいする二本木御邸の消息が分からないため、游泳に巧みな加来衛門七が命じられて、泳ぎだしその安否を尋ねられた。彼は二本木御邸の無事を確認すると、高橋まで泳ぎ下り救助の為の舟の手配をすると、濁流の中を泳ぎ帰ったという。(往復10キロ程か)

 その翌年煕吉が亡くなっている(七歳)。若くして治年と死別した揺台院は、煕吉を我が子の如く育んだものと思われ、その死は大きな衝撃であったと思われる。七年後の享和三年、揺台院もこの二本木御邸でなくなった。(四十九歳)
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百石取一ヶ年暮方大数見積

2009-10-26 08:01:07 | 歴史
以下は文化11年(1814)6月における、百石取の家庭に於ける一年分の家計見積もりである。
この時期、藩財政は最悪の状態にあり、四百石取が六十九石余が四十三石に、三百石で五十四石余が三十五石に、二百石で三拾六石が二十三石に、百石で二十七石が十八石に減額された。主食は米と粟が半々であることがわかる。

(一)弐人・隠居夫婦、(一)弐人・自身夫妻、(一)三人・子供、(一)壱人・小者、合八人。
右之人数にして、一ヶ年暮方見積左之通。
(一)米七石壱斗、八人分粮米一之年分拾四石二斗之内、半方粟にて取続申にして残分。
(一)銭四百四拾八匁、右半方分粟弐拾八俵代。(一)米七斗五升、味噌・醤油用大豆三俵代。
(一)銭四拾八匁、右同麦三俵代。(一)銭弐拾目、塩置物・漬物用之塩四俵代。
(一)銭四拾八匁、燈油一ヶ月壱升宛にして一ヶ年分。(一)銭弐百六十目、万小遣、一ヶ月
弐拾目宛にして。(一)銭拾五匁、漬物大根代。
(一)銭弐拾五匁、焼炭一ヶ年七俵にして代銭。(一)銭五拾目、一ヶ年薪代山薪残買入候分。
(一)銭百五拾目、暮仕廻・医師・師家付届、其外万払方分。(一)銭四十目、増奉公人給銀。
(一)銭五拾目、臨時之手当。
合米七石八斗五升、銭壱貫百五拾目、此米拾三石弐斗三升米、合弐拾壱石八斗

百石取一ヶ年分入方見込
付箋
「此節しらべ帳面減候所にて、(一)米十八石、百石取十人扶持宛手取可相成分。本行差引、
米三石八升不足、此銭弐百六十目余。此分一躰之所猶省略を以取賄可申哉」
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