津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ 番外

2009-10-20 11:53:05 | 徒然
 幕府に対して「上書」を上げた捧庵について考える。
捧庵は権大納言右大将正三位久我通興(通堅)の三男で、生母は飛鳥井大納言雅綱女である。幼年の頃出家し京都鹿苑寺の住持となった。加藤清正の要請を受けて還俗し、宮中作法御指南として熊本入りした。祖秀捧庵と称して苗字は使わなかったとされる。下津捧庵とするのは誤りであり、後の人たちが便宜的にそうしたのであろう。(息・宗政から「下津氏」を名乗ることになる)

 かって私は当サイトに「時慶記にみる下津棒庵」をUPした。
京都・大坂においての彼の活躍ぶりが窺えて興味深い。まさに清正の名代としての外交官的働き振りである。

 さて上書における彼の署名は「捧庵」とされている。熊本城の「棒庵坂」の表示などで「棒」とあるなど、私も今迄いろいろな所で「棒庵」としてきたが、「捧」が本当ではないのかと考えている。「捧げる」という意味合いからも「捧」の方が適当ではないのか。
ただ下津家の先祖附をみると、これはどうやら「棒」である。真実は如何に・・・?
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加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅳ

2009-10-20 07:53:28 | 歴史
      その結末

     公事之覚
一、加藤肥後守家老、馬方・牛方と申候事ハ、初ハ小性中ニて少々手わけ、後二ハ大小
   名町人迄も二ツニ成申候、雖然家老共諸事相談之自分ハ、間悪敷様ニも無御座候処、
   正月乗物之時ニ馬乗場ニて、奥村清左衛門と申候者と加藤太郎作とからかひ少仕候、
   太郎作は丹後弟ニて、美作子ニて候、宿ニ帰り、太郎作、清右衛門ニ状を付、清右衛
   門宿へおしかけ申候を、中途ニて人々おさへ、其後あつかひ相済申候、夫より已後、
   弥わかりつよく成申候、其後間久敷、忠廣縁辺之儀付而、家老之内江戸へ参候様ニ、
   右之縁辺可被仰渡との儀ニて候之処、馬之丞ハ其身可参と申、美作ハ其身可参候付
   而、弥二ツ之わかりつよく成申候
一、美作事ハ清正とハ親類と申、太閤ニて傍輩ニ而御座候故、其已後肥後へ参候、是又
   久敷ものニ而候之故、忠廣も後々ハ美作を贔屓ニ思召候
一、下津捧庵と申候者ハ、忠廣御前をはなれす奉公申候処、不出申(ママ)ニ付而、内々不
   足ニ存、江戸へ相詰、日々ニ屋敷を出、藤堂和泉守(高虎)様を頼、目安を上申候、其
   刻肥後ニ在之家老共、江戸江被召寄、雅楽頭(酒井忠世)様ニ而両度対決御座候、其
   両度之御穿鑿二ハ美作方かち申儀ニ而御座候、其以後 御前ニて御穿鑿之時ハ、右
   之目安ニてハ無御座候而、 大阪謀叛仕候様ニ目安作差上、其穿鑿にて候へハ、不
   存寄儀、又ハ大坂御陣之年ハ、肥後御目付ニ阿部四郎五郎殿・朝比奈源六郎殿御出
   御座候、此両人を証拠人ニ仕候故、両人被仰候ことく成行、まけ申ニ付而方々御預ケ
   ニ被成候

     外聞書
一、右ニ書申候大坂事之儀ハ、肥後守家来ニ斎藤采女と申候者居申候、是ハ秀頼公御局
   之子ニ而御座候故、大坂陣之節抜出、大坂江籠申候、其砌美作・丹後諸事心を付、大
   坂へ送申、其上大坂落城已後も上方辺ニ而逢申候と、後之目安ニ書申候
一、大坂事之儀を申さハ、馬之丞二ハ数多有之候へとも、美作存候ハ、互に水かけあいニ
   申出、両家老共ニつぶれ候ハゝ肥後守身上いかゝと存候故不申出、まけ二仕候

     元和四年八月八日(ママ)、公事落着之時、方々江御預之覚 
一、越後村上堀丹後守(直義)様江       加藤美作守
一、信州中嶋酒井宮内(忠将)様江       加藤丹後守
    当地御所替之時、其儘眞田伊豆守(信之)様江御預
一、信州諏訪諏訪因幡守(頼水)様江      中川周防(正辰)
    右三人共ニ江戸より直ニ御預ケ
                           肥後より直に御預(以下同)
一、美濃岩村松平和泉守(乗忠)様江     和田備中
一、奥州中村相馬大膳(利胤)様江       生駒主水
                            同子 八兵衛
                            同子 七郎右衛門
一、奥州白川丹羽五郎左衛門(長重)様江  寺西伊豫
                            同子 左門
                            同子 二郎介
                            同子 名失念

                           江戸へ証人に参居候故、江戸より直に御預(以下同)
一、参州苅屋水野隼人(忠清)様江      加藤信濃 丹後子
                       肥後より 同チ丹後守 後改、助之丞
                           其時分は伊地知河内と云
一、参州伊保丹羽式部(氏信)様江      近藤作右衛門
                            弟一人 御預之後早死
                      
一、美濃苗木遠山久兵衛(友政)様江    伊地知傳六 河内弟
                           同三郎 
一、和州郡山水野日向守(勝盛)様(江・脱)   加藤太郎作
                              同出雲後庄之助・丹後子
                              同鶴千代後十大夫・太郎作子
一、奥州会津加藤式部少輔(明成)様江   玉目丹波
一、筑後柳川立花飛騨守(宗茂)様江    立花三左衛門
                           同子主馬
      府内
一、豊後舟井竹中伊豆守(重義)様江    堤権右衛門
                           同子権六

  切腹
   八矢傳右衛門
    同子勘兵衛
   名失念 矢兵衛
   後藤又兵衛子 奥村弥八郎
   大坂事ニ付橋本掃部
   同弟 勘右衛門 東武実録作大夫ニ作ル
   横井清四郎 東武実録横江ニ作ル
   
  暇出 長坂甚五兵衛
       同弟半兵衛
   同  山岡三郎右衛門
   同  吉村橘左衛門

                       (完)
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