幕府に対して「上書」を上げた捧庵について考える。
捧庵は権大納言右大将正三位久我通興(通堅)の三男で、生母は飛鳥井大納言雅綱女である。幼年の頃出家し京都鹿苑寺の住持となった。加藤清正の要請を受けて還俗し、宮中作法御指南として熊本入りした。祖秀捧庵と称して苗字は使わなかったとされる。下津捧庵とするのは誤りであり、後の人たちが便宜的にそうしたのであろう。(息・宗政から「下津氏」を名乗ることになる)
かって私は当サイトに「時慶記にみる下津棒庵」をUPした。
京都・大坂においての彼の活躍ぶりが窺えて興味深い。まさに清正の名代としての外交官的働き振りである。
さて上書における彼の署名は「捧庵」とされている。熊本城の「棒庵坂」の表示などで「棒」とあるなど、私も今迄いろいろな所で「棒庵」としてきたが、「捧」が本当ではないのかと考えている。「捧げる」という意味合いからも「捧」の方が適当ではないのか。
ただ下津家の先祖附をみると、これはどうやら「棒」である。真実は如何に・・・?
捧庵は権大納言右大将正三位久我通興(通堅)の三男で、生母は飛鳥井大納言雅綱女である。幼年の頃出家し京都鹿苑寺の住持となった。加藤清正の要請を受けて還俗し、宮中作法御指南として熊本入りした。祖秀捧庵と称して苗字は使わなかったとされる。下津捧庵とするのは誤りであり、後の人たちが便宜的にそうしたのであろう。(息・宗政から「下津氏」を名乗ることになる)
かって私は当サイトに「時慶記にみる下津棒庵」をUPした。
京都・大坂においての彼の活躍ぶりが窺えて興味深い。まさに清正の名代としての外交官的働き振りである。
さて上書における彼の署名は「捧庵」とされている。熊本城の「棒庵坂」の表示などで「棒」とあるなど、私も今迄いろいろな所で「棒庵」としてきたが、「捧」が本当ではないのかと考えている。「捧げる」という意味合いからも「捧」の方が適当ではないのか。
ただ下津家の先祖附をみると、これはどうやら「棒」である。真実は如何に・・・?