西郡家は丹後以来の家筋である。
■西郡大炊介・清忠、清忍(刑部)
岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録)
西郡大炊 清忠、天正年中於丹後被召出五百石、鉄砲三十挺頭、勢州亀山城攻の
戦功五百石、岐阜・関ヶ原・福智山の戦功によつて千石加増、都合二千石、御小姓
頭御番頭、多分大炊と云違るとて刑部と改候
大炊二男西郡要人家督相続、大炊か嫡子(長左衛門)ハ若き時病身有之候由、後
に別禄百五十石被下、今の又右衛門か祖なり
(1)馬廻組三番 丹後 八百石 (於豊前小倉御侍帳)・・刑部
(2)刑部少 御馬廻衆・添頭 八百石 (肥後御入国宿割帳)
■西郡刑部少輔 (要人佐)
初め長次郎。西郡大炊助清忠二男。慶長十八年父の歿後、兄長左衛門病なるによ
り家督、知行五百石。馬廻組。寛永元年頃刑部少輔に改む。のち三百石加増。
肥後入国の後二百石加増、都合千石。要人佐に改む。寛永十六年より廿年迄奉行
を勤め、廿年三月十六日千石加増、すべて二千石。承應三年歿。
要人死後断絶、子供様子有之他国いたし候由
(先祖附・豊前御侍帳・相談帳)
寛文期 番頭(肥後藩主要役職員--肥後讀史総覧)
人持衆・五番組頭 二千石 (真源院様御代御侍名附)
(真源院様御代御侍免撫帳)
■細川家家臣・西郡家は大炊介の長男の血筋である。代々百五十石を禄して明治に至った。
1 2 3 4 5 6 7 8 9
長左衛門--十右衛門--角右衛門--丹七--十右衛門--吟次--又右衛門--直衛--長左衛門(淳平)
六代・吟次は、安永六年から寛政三年まで各地の郡代を勤めた。
■西郡大炊介・清忠、清忍(刑部)
岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録)
西郡大炊 清忠、天正年中於丹後被召出五百石、鉄砲三十挺頭、勢州亀山城攻の
戦功五百石、岐阜・関ヶ原・福智山の戦功によつて千石加増、都合二千石、御小姓
頭御番頭、多分大炊と云違るとて刑部と改候
大炊二男西郡要人家督相続、大炊か嫡子(長左衛門)ハ若き時病身有之候由、後
に別禄百五十石被下、今の又右衛門か祖なり
(1)馬廻組三番 丹後 八百石 (於豊前小倉御侍帳)・・刑部
(2)刑部少 御馬廻衆・添頭 八百石 (肥後御入国宿割帳)
■西郡刑部少輔 (要人佐)
初め長次郎。西郡大炊助清忠二男。慶長十八年父の歿後、兄長左衛門病なるによ
り家督、知行五百石。馬廻組。寛永元年頃刑部少輔に改む。のち三百石加増。
肥後入国の後二百石加増、都合千石。要人佐に改む。寛永十六年より廿年迄奉行
を勤め、廿年三月十六日千石加増、すべて二千石。承應三年歿。
要人死後断絶、子供様子有之他国いたし候由
(先祖附・豊前御侍帳・相談帳)
寛文期 番頭(肥後藩主要役職員--肥後讀史総覧)
人持衆・五番組頭 二千石 (真源院様御代御侍名附)
(真源院様御代御侍免撫帳)
■細川家家臣・西郡家は大炊介の長男の血筋である。代々百五十石を禄して明治に至った。
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長左衛門--十右衛門--角右衛門--丹七--十右衛門--吟次--又右衛門--直衛--長左衛門(淳平)
六代・吟次は、安永六年から寛政三年まで各地の郡代を勤めた。