津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅲ

2009-10-19 18:09:50 | 歴史
   (下津)捧庵  目安返答書之事

一、今度肥後守ニ拙者暇を乞罷出申候様子ニ付而、美作守・丹後守如申上候、家中之者、
   肥後守ニ不理罷出候事、法度之儀者其通御座候、然者松平下野殿、肥後守つか織田
   兵部少輔(信良)所江御出候、振舞出候付而、拙者子共かよひをもさせ可申候間、め
   しつれ見廻可申之由、兵部少輔申越候間、則丹後守ニあひ申、右之通談合仕候へハ、
   尤他所二ハ相ちかひ、其上肥後守ニ目見仕事候間不参之由、兵部少輔ニも可申由申
   候処、子共めしつれ参、則せかれ共肥後守前江出申候処、肥後守罷帰腹立被仕、せ
   かれ共おひ出す之由被申候、其段丹後守承、物書渋谷三郎兵衛を以、拙者ニ申聞候、
   右ニ丹後守ニ理申通をも肥後守ニ於申聞者、肥後守も聞はけ申候儀も可有之哉、結句
   肥後守、丹後ニ理可参事と被申候由ニ候、其上下野殿なとへハ、肥後主用所ニ者、右
   之一両日已前ニも肥後守ニ不理参候、然上者丹後ニことハり、肥後守ニ目見被仕、兵
   部少輔所ニ御座候間、くなしおちさま(ママ)と存候へ共、其段丹後不申分候、か様之処
   を以、此後ハゆるす之由被申候、然共せかれ共存分者隙を出候処、屋敷ニ罷居候へ
   者、拙者めしつれ参候故、せかれ共ハとかなき通申わけ度様ニ罷成候事、迷惑ニ存、
   未明ニ罷出候、其段相田内匠迄申候処、後三郎兵衛ニ扶持をはなし候由ハ、丹後不
   申渡文ニ仕候得と申候、左様之儀丹後ニたてづき、右之通有様ニ申候儀ハ迷惑ニ存、
   後三郎兵衛罷出候、拙者跡ニ而丹後理不尽を申かけ糾明なと仕候へ者、拙者迷惑に
   存、三郎兵衛罷出候事は存候へ共、其分ニ仕召置候事
一、伊藤吉大夫と申者走候事、拙者不存候事
一、先年大坂申事之時、肥後守、十月廿四日ニ伏見ヲ罷立、兵庫へ下申候、拙者儀、肥
   後之様子可被聞召儀、又様子可被仰遣之御意ニて、二條御城絵残り申候、国中城々、
   他国境目、道之のり、城持、其外証人出し(候・脱カ)者共被成御改候て、其段書立可
   申之旨、上野殿被 仰聞、其節並河志摩主伏見被召置ニ付、和田備中守相添、攝州
   郡山より多人(数・脱カ)伏見江戻り申候、然者右両人、伏見屋敷之留守仕候横地助
   之丞・河本平太夫、此者共談合仕書立上申候、則下(上カ)野殿被掛御目、其上ニ而
   被仰出者、何も今迄証人出し申候者、いや人質可出候、境目之城々丈夫ニ仕、熊本城
   ニ人数たふ/\と召置、何之城機遣之時も、右之うき人数遣候様ニして、其外五百、千
   ニ而も、隣国立次第、肥後守大坂江可参御意ニ候、其時拙者存候者、美作守役所無之
   候間、関之城二美作守有之、わかく候間、丹後ハ御陣之供仕可然かと、上野殿迄申上
   候、尤可然思召候間、国之年寄共と相談可仕之旨被仰候、肥後守大坂江罷立候へハ、
   何茂家中人質を取、熊本城ニ召置、美作守大坂江ハ機遣存候故、人質共又左衛門ニ
   預置可然かと存、上野殿迄拙者右之通申上候、然者河本平大夫・横地助之丞・飯田覚
   兵衛ハ美作を熊本二置申度と談合仕候哉、美作守熊本城ニ無之候へハ国中迷惑之由、
   津田平左衛門を頼、上野殿不被仰出事を拙者申候様ニ、上野殿へわるさまニ申上之由
   ニ候、其ニ付而、上野殿被成御腹立之通、罷上御理可申之通、肥後年寄共へ申候処、
   右之仕置尤敷、右之仕置存候条、不及申分ニと、年寄共、中川周防をはしめ申候二付
   而堪忍仕候、其段ハ於駿河、上野殿江右馬允申上候処ニ、被分聞召之由ニ候、一昨日
   も其御礼上野殿江申上候

      元和四年七月晦日                 捧庵
  
  
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夜もおちおち眠れない

2009-10-19 16:00:45 | 徒然
 地震で本の下敷きになって儀性になられた女性の方とか、先の北海道での本屋さんの本棚が倒れて下敷きになられた子供さんとか・・・どうも近頃本や本棚での事故が続いて身につまされている。

 いろいろ作業をするには本棚が近くにあるのがベストである。大揺れが来たら、100%やられるなと思いながらも、本棚に囲まれて過している。寝るところとて・・危ない。本を一冊手にしてベッドに入る小生としては、本棚が近くにないと不便この方ない。高さの高い本棚の上には、天井まで袋に入れた資料がずらりと並んでいて、これが落ちてきたらと思うと「夜もおちおち眠れない」。本棚の位置を動かすのが一番だが、これは一仕事だ。机の位置を変えるにはこれまた窓の位置とか、コンセントとかインターネットの関係とか・・簡単には行かない。せいぜい転倒防止の金具を取り付けて、本棚の下敷きになるのは防止しなければならない。本の方はいつもお世話になっていることだし、少し痛い目にあっても仕方が無いかとも思っている。
DIYに適当な金具を見つけに出かけなければ成らない。
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寛文四年六月「御侍帳」より

2009-10-19 14:11:42 | 歴史
 細川綱利時代の役職者で、家禄千石以上の人たちを拾い上げてみた。(藩主綱利・21歳)
          (朱書きは 慶安元年の 「真源院様御代御侍免撫帳」 による)

   人持衆
一、三万石           細川丹後守 (細川帯刀 30,000石)  宇土支藩二代藩主・行孝
一、弐万五千石        細川将監    細川刑部家二代・興之(寛文八年没・25歳)
                                  (細川刑部 15,000石 刑部家初代・興孝 寛文四年閏五月致仕)
一、現米弐千七百石余    細川左京    細川光尚・弟 尚房 寛文五年六月・新知二万石
一、千石            長岡与八郎     細川内膳家二代・忠恒
一、千石            長岡半左衛門   細川内膳家三代・忠春(与八郎弟)
一、千石            柏原新左衛門

    長岡監物組
一、壱万石           長岡監物 (長岡監物 10,000石) 家老・米田興季(三代)
一、四千石           南条左近    細川興秋女婿
一、六千石           志水伯耆
一、千五百石         谷嶋之丞
一、千石            尾池伝右衛門   足利道鑑・嫡男
一、千五百石         米田新十郎
一、千石  御物奉行    中村伊織
一、二千石 御番頭     木下三郎左衛門  日出藩主・木下延俊甥

    長岡帯刀組
一、現米三千三百石     長岡帯刀
一、六千石           小笠原民部少 小笠原備前家三代・長之
                                 (小笠原備前 6、000石 二代長光)
一、四千石           山名弥三右衛門
一、三千六十六石      坂崎清左衛門
一、千石  十挺       大河原仁右衛門
一、千五百石         松野主殿助
一、千石            乃美新右衛門

一、千石  御番頭      松野八郎左衛門
一、千石            竹内吉十郎
一、千二百石         斎藤勘助

    有吉内膳組
一、壱万八千五百石    有吉内膳   家老有吉貞之(五代)
                         (有吉平吉 18,500石 有吉家四代・英貴)
一、三千九百石       平野茂左衛門
一、千五百石  三十挺  出田作左衛門
一、千石    廿挺     小坂新八
一、千石    御弓廿張  志方半右衛門
一、千石    御番頭   槙嶋半之丞
一、二千石          浅山清右衛門

一、千五百石  御番頭  三宅百助
一、千五百石         寺尾孫四郎

    沢村宇右衛門組
一、壱万石          沢村宇右衛門 (沢村宇右衛門 6,000石)  沢村大学介吉重・養嗣子 二代
                          (沢村大学 5,000石 慶安三年九月死去 91歳)
一、千石           下津縫殿助
一、千石           丹羽亀之丞
一、千三百五十六石余   横山五郎大夫

一、千石           中根平兵衛
一、千石   御弓廿張   沢村八郎右衛門
一、千石           国友半右衛門

一、千三百石  御番頭  松野亀右衛門
一、千石           奥村安大夫

    清田石見組
一、三千三十五石     清田石見
一、三千石         氏家志摩
一、二千石         藪 小吉
一、千石           住江求馬
一、千二百七拾九石六斗   西山八郎兵衛

一、千石   御番頭   牧四郎右衛門
一、千石           坂崎金三郎
一、千石           芦村惣兵衛

    有吉頼母允組
一、三千四百三十五石八斗余  大木織部
一、三千八石        奥田権左衛門
一、千石           楯岡孫四郎
一、千石           佐久間七兵衛
一、千百五十石  五拾挺  益田弥一右衛門
一、千石    三十挺  長谷川久兵衛

一、三千石   御番頭  尾藤金左衛門

一、二千八百廿弐石余 御小姓頭  朝山次郎左衛門

一、千石     御小姓頭  寺本八郎右衛門

一、千石     御小姓頭  田辺平助

一、千石     御小姓頭  平野九郎右衛門

一、千石     御小姓頭  松山権兵衛

    志水久馬介組
一、千石            志水久馬介(御側組外衆・重複)

    御側者頭衆
一、千石    御側筒十五挺  山本三郎右衛門
一、千百石  歩使番頭     和田主膳
一、千石    御長柄頭     春木主税

    御留守居衆 田中左兵衛与
一、四千百五十石      田中左兵衛
一、千百石          長岡主水
一、千石            松下市進
一、千石            中路内蔵助

    八代御城附衆
一、三万石          長岡佐渡 (長岡佐渡 30,000石 寛文元年跡目相続)
                        家老松井寄之(細川忠興六男)寛文六年正月没・50歳
一、千五百石         立石市兵衛
一、千五百石         岩越惣右衛門

    佐敷 藪図書組
一、二千石          藪 図書

 ・ (長岡勘解由 5,000石)
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