(下津)捧庵 目安返答書之事
一、今度肥後守ニ拙者暇を乞罷出申候様子ニ付而、美作守・丹後守如申上候、家中之者、
肥後守ニ不理罷出候事、法度之儀者其通御座候、然者松平下野殿、肥後守つか織田
兵部少輔(信良)所江御出候、振舞出候付而、拙者子共かよひをもさせ可申候間、め
しつれ見廻可申之由、兵部少輔申越候間、則丹後守ニあひ申、右之通談合仕候へハ、
尤他所二ハ相ちかひ、其上肥後守ニ目見仕事候間不参之由、兵部少輔ニも可申由申
候処、子共めしつれ参、則せかれ共肥後守前江出申候処、肥後守罷帰腹立被仕、せ
かれ共おひ出す之由被申候、其段丹後守承、物書渋谷三郎兵衛を以、拙者ニ申聞候、
右ニ丹後守ニ理申通をも肥後守ニ於申聞者、肥後守も聞はけ申候儀も可有之哉、結句
肥後守、丹後ニ理可参事と被申候由ニ候、其上下野殿なとへハ、肥後主用所ニ者、右
之一両日已前ニも肥後守ニ不理参候、然上者丹後ニことハり、肥後守ニ目見被仕、兵
部少輔所ニ御座候間、くなしおちさま(ママ)と存候へ共、其段丹後不申分候、か様之処
を以、此後ハゆるす之由被申候、然共せかれ共存分者隙を出候処、屋敷ニ罷居候へ
者、拙者めしつれ参候故、せかれ共ハとかなき通申わけ度様ニ罷成候事、迷惑ニ存、
未明ニ罷出候、其段相田内匠迄申候処、後三郎兵衛ニ扶持をはなし候由ハ、丹後不
申渡文ニ仕候得と申候、左様之儀丹後ニたてづき、右之通有様ニ申候儀ハ迷惑ニ存、
後三郎兵衛罷出候、拙者跡ニ而丹後理不尽を申かけ糾明なと仕候へ者、拙者迷惑に
存、三郎兵衛罷出候事は存候へ共、其分ニ仕召置候事
一、伊藤吉大夫と申者走候事、拙者不存候事
一、先年大坂申事之時、肥後守、十月廿四日ニ伏見ヲ罷立、兵庫へ下申候、拙者儀、肥
後之様子可被聞召儀、又様子可被仰遣之御意ニて、二條御城絵残り申候、国中城々、
他国境目、道之のり、城持、其外証人出し(候・脱カ)者共被成御改候て、其段書立可
申之旨、上野殿被 仰聞、其節並河志摩主伏見被召置ニ付、和田備中守相添、攝州
郡山より多人(数・脱カ)伏見江戻り申候、然者右両人、伏見屋敷之留守仕候横地助
之丞・河本平太夫、此者共談合仕書立上申候、則下(上カ)野殿被掛御目、其上ニ而
被仰出者、何も今迄証人出し申候者、いや人質可出候、境目之城々丈夫ニ仕、熊本城
ニ人数たふ/\と召置、何之城機遣之時も、右之うき人数遣候様ニして、其外五百、千
ニ而も、隣国立次第、肥後守大坂江可参御意ニ候、其時拙者存候者、美作守役所無之
候間、関之城二美作守有之、わかく候間、丹後ハ御陣之供仕可然かと、上野殿迄申上
候、尤可然思召候間、国之年寄共と相談可仕之旨被仰候、肥後守大坂江罷立候へハ、
何茂家中人質を取、熊本城ニ召置、美作守大坂江ハ機遣存候故、人質共又左衛門ニ
預置可然かと存、上野殿迄拙者右之通申上候、然者河本平大夫・横地助之丞・飯田覚
兵衛ハ美作を熊本二置申度と談合仕候哉、美作守熊本城ニ無之候へハ国中迷惑之由、
津田平左衛門を頼、上野殿不被仰出事を拙者申候様ニ、上野殿へわるさまニ申上之由
ニ候、其ニ付而、上野殿被成御腹立之通、罷上御理可申之通、肥後年寄共へ申候処、
右之仕置尤敷、右之仕置存候条、不及申分ニと、年寄共、中川周防をはしめ申候二付
而堪忍仕候、其段ハ於駿河、上野殿江右馬允申上候処ニ、被分聞召之由ニ候、一昨日
も其御礼上野殿江申上候
元和四年七月晦日 捧庵
一、今度肥後守ニ拙者暇を乞罷出申候様子ニ付而、美作守・丹後守如申上候、家中之者、
肥後守ニ不理罷出候事、法度之儀者其通御座候、然者松平下野殿、肥後守つか織田
兵部少輔(信良)所江御出候、振舞出候付而、拙者子共かよひをもさせ可申候間、め
しつれ見廻可申之由、兵部少輔申越候間、則丹後守ニあひ申、右之通談合仕候へハ、
尤他所二ハ相ちかひ、其上肥後守ニ目見仕事候間不参之由、兵部少輔ニも可申由申
候処、子共めしつれ参、則せかれ共肥後守前江出申候処、肥後守罷帰腹立被仕、せ
かれ共おひ出す之由被申候、其段丹後守承、物書渋谷三郎兵衛を以、拙者ニ申聞候、
右ニ丹後守ニ理申通をも肥後守ニ於申聞者、肥後守も聞はけ申候儀も可有之哉、結句
肥後守、丹後ニ理可参事と被申候由ニ候、其上下野殿なとへハ、肥後主用所ニ者、右
之一両日已前ニも肥後守ニ不理参候、然上者丹後ニことハり、肥後守ニ目見被仕、兵
部少輔所ニ御座候間、くなしおちさま(ママ)と存候へ共、其段丹後不申分候、か様之処
を以、此後ハゆるす之由被申候、然共せかれ共存分者隙を出候処、屋敷ニ罷居候へ
者、拙者めしつれ参候故、せかれ共ハとかなき通申わけ度様ニ罷成候事、迷惑ニ存、
未明ニ罷出候、其段相田内匠迄申候処、後三郎兵衛ニ扶持をはなし候由ハ、丹後不
申渡文ニ仕候得と申候、左様之儀丹後ニたてづき、右之通有様ニ申候儀ハ迷惑ニ存、
後三郎兵衛罷出候、拙者跡ニ而丹後理不尽を申かけ糾明なと仕候へ者、拙者迷惑に
存、三郎兵衛罷出候事は存候へ共、其分ニ仕召置候事
一、伊藤吉大夫と申者走候事、拙者不存候事
一、先年大坂申事之時、肥後守、十月廿四日ニ伏見ヲ罷立、兵庫へ下申候、拙者儀、肥
後之様子可被聞召儀、又様子可被仰遣之御意ニて、二條御城絵残り申候、国中城々、
他国境目、道之のり、城持、其外証人出し(候・脱カ)者共被成御改候て、其段書立可
申之旨、上野殿被 仰聞、其節並河志摩主伏見被召置ニ付、和田備中守相添、攝州
郡山より多人(数・脱カ)伏見江戻り申候、然者右両人、伏見屋敷之留守仕候横地助
之丞・河本平太夫、此者共談合仕書立上申候、則下(上カ)野殿被掛御目、其上ニ而
被仰出者、何も今迄証人出し申候者、いや人質可出候、境目之城々丈夫ニ仕、熊本城
ニ人数たふ/\と召置、何之城機遣之時も、右之うき人数遣候様ニして、其外五百、千
ニ而も、隣国立次第、肥後守大坂江可参御意ニ候、其時拙者存候者、美作守役所無之
候間、関之城二美作守有之、わかく候間、丹後ハ御陣之供仕可然かと、上野殿迄申上
候、尤可然思召候間、国之年寄共と相談可仕之旨被仰候、肥後守大坂江罷立候へハ、
何茂家中人質を取、熊本城ニ召置、美作守大坂江ハ機遣存候故、人質共又左衛門ニ
預置可然かと存、上野殿迄拙者右之通申上候、然者河本平大夫・横地助之丞・飯田覚
兵衛ハ美作を熊本二置申度と談合仕候哉、美作守熊本城ニ無之候へハ国中迷惑之由、
津田平左衛門を頼、上野殿不被仰出事を拙者申候様ニ、上野殿へわるさまニ申上之由
ニ候、其ニ付而、上野殿被成御腹立之通、罷上御理可申之通、肥後年寄共へ申候処、
右之仕置尤敷、右之仕置存候条、不及申分ニと、年寄共、中川周防をはしめ申候二付
而堪忍仕候、其段ハ於駿河、上野殿江右馬允申上候処ニ、被分聞召之由ニ候、一昨日
も其御礼上野殿江申上候
元和四年七月晦日 捧庵