津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

嘉永七年相州陣屋へ指越候惣人数附 -- Ⅰ

2009-10-25 16:48:33 | memo
  御人数之儀、最前御届ニ茂可相成哉之模様ニ付、御役所打合、同書ニ而、左之通しらへ立ニ相成、嘉永七年三月廿八日被指越候、其後追々御国より被指下、段々打替、当時本文之通相成候、見合之為配置、相州御陣屋江指越候惣人数附

       長岡監物(是容) 天保三年家督・米田家10代 家老職・大組預 嘉永六年二月軍備総師として浦賀出張 42歳
      嫡子
       米田壱岐(是豪) 米田家11代
      二男
       米田小源太(是保) 米田家12代
           従者三百三拾弐人
      御備頭
       三渕志津馬(澄潔)
           従者百拾四人
      御番頭
       長岡詮太郎 刑部家別家(初代・興恒)五代 上着座同列・番頭
           従者拾弐人
       松山権兵衛
           従者拾人
      着座
       木下伊織
           従者弐拾九人
       沼田勘解由(延裕) 沼田家10代 嘉永六年家督
           従者八拾壱人
      御鉄炮頭
       田中亀之助
           従者六人
       藪 助作
           従者五人
       野田弥三左衛門
           従者六人
       増田十郎左衛門
           従者七人
       上月十郎右衛門
           従者五人
       松本甚十郎
           従者五人
      御鉄炮副頭
       林九八郎
           従者七人
       尾藤貞右衛門
           従者七人
       小篠彦右衛門
           従者五人
      御物奉行
       横山藤七
           従者六人
      大組附
       生源寺市兵衛
           従者四人
       後藤尉右衛門
           従者五人
       木村十左衛門
           従者五人
       鎌田軍之助
           従者七人
       村川作蔵
           従者五人
       松見太郎八 父・卓右衛門名代
           従者壱人
      御番方組脇
       野田一之助
           従者四人
       横田治部右衛門
           従者四人
       上田源十郎
           従者四人
       岩佐俊助
           従者四人
      松山権兵衛組・御番方
       三拾九人
           従者九拾六人
      長岡詮太郎組・御番方
       四拾弐人
           従者九拾八人
      御番頭已下、御番方迄之子弟
       七拾四人
      炮術師役
       志賀何右衛門
           従者弐人
       財津勝之助
           従者弐人
       池邊次郎助
           従者壱人
       池部弥一郎
           従者壱人
       大島久平
           従者壱人
      志賀何右衛門門弟・大筒打方
       士席三拾六人
       独礼以下四人
           右従者四十壱人
      財津勝之助門弟・右同
       士席三拾人
       独礼以下拾壱人
           右従者三拾八人
      池部次郎助門弟・右同
       士席弐拾七人
       諸役人段壱人
       足軽段弐拾人
           右従者弐拾九人

      池部弥一郎門弟・右同
       士席三拾壱人
       独礼以下八人
           右従者三拾八人
      大島九平門弟・大筒打方
       士席三拾壱人
       独礼以下九人
           右従者三拾三人
      貝太鼓役
       諸役人段五人
       足軽頭段七人
      足軽外様
       百四拾四人
      御奉行
       荒木甚四郎
       荒木牛之助甚四郎・嫡子
          右従者五人
      御役所根取
       両角権助
          従者壱人
      御役所御物書
       弐人
          従者壱人
      札方外様足軽
       使弐人
      小使・右同
       三人
      下使百人者
       弐人
      御目附
       小川次郎助
          従者弐人
      御目附御横目
       弐人
          従者弐人
      御留守居助勤
       青地源右衛門
          従者五人

         
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憂世と浮世

2009-10-25 12:01:37 | 書籍・読書
 NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」というなかなか面白い番組だが、太田光なるタレントががなりたてるのが気に入らない。しかし頭の回転のよさには敬服して拝見している。10月20日のゲストは河竹登志夫氏、能や歌舞伎のお話しがあり聞き入ってしまった。             
          http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20091020.html
 その中に「能は憂世、歌舞伎は浮世」というお話しになるほどと思った。

 もしやと思いぐぐって見ると、「憂世と浮世 : 世阿弥から黙阿弥へ」という著作が在ることを知った。早速「日本の古本屋」のお世話になり注文する。昨日は鑑能に出かけよい時間を過したが、少し勉強をしようと思ってのことである。

  【憂世と浮世 : 世阿弥から黙阿弥へ 河竹登志夫著】
       日本放送出版協会 (NHKブックス ; 712)
【内容】
本書は、華麗な様式美の根底にある普遍的な人間のドラマ、科白と音楽と舞踊によって成る“総合芸術”の世界を、演劇論の碩学が、東西の作品の比較分析から解き明かす。
これは、日本人の“心”を綴り、“究極の美”を語り尽くすものである。

序章 日本の演劇伝統とドラマ
その1 憂世の悲劇—天上希求の世界〈世阿弥〉
その2 人間ドラマの成立—地上界の劇性〈狂言と近松〉
その3 愛別離苦の劇的展開—諒解の悲劇〈浄瑠璃全盛〉
その4 浮世の芝居—歌舞伎バロックの世界〈南北と黙阿弥〉
終章 究極の美境
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細川家家臣・中西(太兵衛)家

2009-10-25 11:25:37 | 歴史
 御中小姓という家格があるが、これは世禄ではなく原則一代限りである。(新・熊本の歴史4 近世(上)p189 松本寿三郎氏) 代々御中小姓があり、これは非常に功労のある家だとされる。宝暦八年の「御中小姓之内代々相續被仰付候御書之写」によると38家が記されており、ここでご紹介する中西家もそうである。
         http://www.shinshindoh.com/daidai.html
丹後以来の家であると共に、初代・太兵衛、二代・善助はともに田邊城に籠城した。

  1、太兵衛 
     丹後石川と申所にて浪人居申候、幽斎君・忠興君へ折々被召候、今度之
     御籠城に粮米塩噌等指上、籠申度由、太兵衛申上候処、御満足之旨にて
     御米等少差上候由 八木田丹右衛門・桑原主殿関東江御供にて罷越候、
     両人の妻子従類十八九人山小屋へ差置候処、小野木勢乱入いたし、及難
     儀候、太兵衛善助駆付、弓鉄砲を以防き、小野木か者共二三人討捕、其
     外追払、右妻子無難に引取、田辺城江籠申候 (中略)其節丹右衛門妻よ
     り鑓一本、主殿妻より長刀一振、守り道具之由ニ而、今度の礼に遺し候由、
     忠興君御帰陳之上、右之趣、達御耳、御褒美被下候豊前国江被召連、太
     兵衛とひの口之御櫓被成御預候、御知行も可被下旨、御座候得とも、当時
     迄、身楽ニ居申候ニ付、御知行拝領仕候てハ、勤のほと如何奉存、御断申
     上候へは、御合力米三十石十人扶持被下、宇佐郡之内、大村と申所ニ被
     差置無程病死いたし候、
  2、善助  
     善助も、右同一ニ被召出、御合力米廿石被下、同郡小平村と申所ニ被差置、
     御郡奉行、御物成御取立をも被仰付、其後忠利君御代、御家中いつれも御
     合力米等減少被仰付候節、奉願拾石三人扶持拝領、追而御加増可被下旨
     にて当御国江被召連候
        切米人数 十石三人 (於豊前小倉御侍帳)
  3、傳兵衛  御中小姓被召出候  (綿考輯録・巻五)
        平野弥五左衛門組 三人扶持廿石 (御侍帳・元禄五年比カ)
  4、儀大夫
  5、善助   著書:石垣秘伝書(寛保三年、加藤家築城の時穴生職であった北川
                     家の秘伝書を懇望して写したもの)
  6、亀之允(養子 実・志水牛右衛門長房三男 格助)
        寛政八年六月~寛政九年六月 上益城郡郡代
        寛政九年六月~寛政十一年六月 八代郡郡代
        寛政十一年六月~文化三年二月 芦北郡郡代
        明和五年・御近習御目付--寛政二年・御郡方御目付、御郡代
 
    中西大閑 名は安福、格助と称し、大閑と号す。藩に仕へ食禄百石、近習目付、
    郡方目付及び郡代を勤む。性亢直にして果敢決断の人なり。又義父に仕へて善
    く孝養を盡せり。文政十一年正月に十五日没す。享年八十五、墓は子飼松雲院。
  7、太膳   細川斎樹公御書出(文化九年)百石
  8、太次郎  御番方・遠藤関内組 高百石之御擬作
  9、太兵衛

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