津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

相州本牧表警備配備に関する書状

2009-10-24 18:21:11 | 歴史
       ぺりー艦隊の来航(嘉永六年)から明治維新までを幕末と呼ぶ。    
          ja.wikipedia.org/wiki/黒船来航
          www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu03.htm

       細川藩に於いても慌しい様子が諸資料で伺える。


    「九月二日上々早打御飛脚、同十二日着」
   以別紙申達候、御側備之御人数御呼登之儀付而ハ、追々御取遣も及候通候処、右付而ハ段々、
   御沙汰之旨被為在、何分只今通り之御人数てハ御備立も六ケ敷、二番手迄被差出候跡、重
   士と申候も纔(ワズカ)両三人位て、其外御近習手計相成、たとへ御出馬不 被仰立しても、
   来春又異船渡来之見込ニて、御膝元之儀候へハ、万々一事望候ハ、其儘可相済様無
   之事付、先来年之処左之通被仰付旨御座候
一、御側備重士八十人計り御見込を以、被差登候様
一、大炮打人之儀、先達 御直書被成下候通候処、其後段々被仰段之趣、委細被仰越候通ニ
   も候へとも、今度出来者多く村井流之儀ニ而、其打ちニ者西洋流も加り居候へハ、人気之儀、成丈
   ヶ御取押之御仕法被附、財津勝之助引廻て二十人、池辺彌一郎引廻ニて二十人被差登候様、
   左候へハ双方向合之人数ニ而、異論も有之間敷候間、宜敷被仰談候様
一、御側足軽之儀、御弓組十人・御筒組八人程被差登候様
    御側足軽・御長柄之者事ハ選局根廻しいたし候へハ、長柄之者ハ当冬五十人不時登有之
    由、其上三十人入候哉、同局より江戸問合成候処、五十人登り候へハ、其上ハ入サルよ
    し也

一、御長柄組之儀、先ツ三十人程も被差登候様
   右之通候間、夫々被及御達、年内追々御当地着いたし候様、尤右之通被 仰付候てハ、先達
   差進置候御役々増登之儀、悉皆御押付ハ難相成方可有之、其上諸家様之御人数、別紙
   之通追々参着、其外ニ茂少々宛ハ、何れ之御方々様ニ茂登り込候由付、此元ニ而見込之趣、十
   平出立之節、委細申含置候間、直御承知候様存候、且又今度新規出来之御筒玉目等、別紙之
   通御座候、地金之儀、先便被仰越候通候処、最早別段御配慮及不申、右之趣為可申達、早
   打御飛脚差立候事御座候、已上
       (嘉永六年)
           八月晦日           小笠原備前(長洪)
                            有吉頼母(立道)
              御家老
              御中老 宛
      
        猶々本行之通候へハ、弥以御小屋賦六ヶ敷、是迄之御人数にてさへ治り兼候程有之、
        旁木挽町・八丁堀御屋敷之方、少々宛混地も有之、双方ニ而、大概御小屋数三十五六軒
        程之処ハ、重畳心痛至極仕候得とも、何分ニ茂致方も無之、実当惑此事御座候、
        已上
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鑑能

2009-10-24 16:32:23 | 徒然
 午後から「金春流若楠会結成記念鑑賞会」に出かける。関係者のご努力であろう、ほぼいっぱいの入りに一安心する。「箙」を演じられた中村一路氏は、肥後金春流中村家のご子息で、本田光洋先生(前・能楽協会長)の下で修行をしてこられたが、プロの道に入られた。光洋先生のご子息、芳樹氏・布由樹氏ご兄弟と中村一路氏のお三方で、この会を結成された。このような催しを通じて、かって熊本二於いて隆盛を極めた文化遺産が、再度市民の身近な存在になることを願ってやまない。関係者の間に「能楽堂」建設についての機運が芽生えてきた。息の長い活動になるのだろうが、是非とも作り上げたいものだ。そのとき「文化都市熊本」が本物になる。良い時間を過した。
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