侍の新規召抱えがどのような経緯で行われたのかは、いろいろなケースがあるようだ。
木野家は召出しから明治維新まで三百石を拝領しているが、その召出しの経緯を詳しく知る資料が残されていて興味深い。
それは木野家初代・左兵衛についてである。
■「大日本近世史料・細川家史料 8-13」は、元和六年三月廿二日忠利が三斎(長舟十右衛門宛)に宛てた書状(抜粋)であるが次のようにある。
妻吉左(妻木之徳)内々被申候ハ、主女之親類ニ、歳廿計なるもの御座候、吉左衛門肝煎候
ハてかなハぬ様子共御座候而、只今も吉左衛門所ニ養て被置候、然故御次而も御座候ハゝ、
何とそ申上、知行弐百石被遣、被成御抱候様ニ仕度候由被申候、され共、我等者加様之儀申
上たる儀無御座候間、正源院まても談合可仕とまて申候而置申候、如何可有御座候哉事
■又その後の経過として元和六年五月十九日の書状、「大日本近世史料・細川家史料 8-25(抜粋)」がある。
先度申上候妻木吉左衛門尉(之徳)内儀親類木野左兵衛事、可被召置之由、被仰下候間、只
今罷下候、吉左衛門尉ハ忝之儀難申盡候間、能々御禮申上候様にと被申候事。
妻木吉左衛門の、奥方の親類である木野左兵衛を召し抱えて欲しいという要請に対しての、忠利→三斎の書状であるが、左兵衛が三百石を拝領しているところを見ると、三斎の指示があったのだろうか。
妻木吉左衛門とは「妻木貞(美濃國妻木を領す)の二男。文禄三年家康に初めて目見。慶長十八年五百石、のち千石。正保四年一月廿六日歿。」
妻木貞徳は「天文十三年(1544)~元和四年(1618)二月十三日。源二郎、伝兵衛。致仕号伝入。いは「貞行」とも。藤右衛門の子。明智光秀の妻の従兄弟という(寛永伝)。美濃妻木村の領主。信長に仕え、馬廻(寛永伝)。本能寺の変後、さいちを子頼忠に譲って隠居。だが、慶長五年(1600)の動乱の時、東軍として西軍の田丸直昌(直息)と戦った(重修譜)。元和四年没、七十五歳という(寛永伝)。」
(戦国武将列伝より引用)
妻木氏はガラシャ夫人の生母の家系である。その故の召出しである。
木野家は召出しから明治維新まで三百石を拝領しているが、その召出しの経緯を詳しく知る資料が残されていて興味深い。
それは木野家初代・左兵衛についてである。
■「大日本近世史料・細川家史料 8-13」は、元和六年三月廿二日忠利が三斎(長舟十右衛門宛)に宛てた書状(抜粋)であるが次のようにある。
妻吉左(妻木之徳)内々被申候ハ、主女之親類ニ、歳廿計なるもの御座候、吉左衛門肝煎候
ハてかなハぬ様子共御座候而、只今も吉左衛門所ニ養て被置候、然故御次而も御座候ハゝ、
何とそ申上、知行弐百石被遣、被成御抱候様ニ仕度候由被申候、され共、我等者加様之儀申
上たる儀無御座候間、正源院まても談合可仕とまて申候而置申候、如何可有御座候哉事
■又その後の経過として元和六年五月十九日の書状、「大日本近世史料・細川家史料 8-25(抜粋)」がある。
先度申上候妻木吉左衛門尉(之徳)内儀親類木野左兵衛事、可被召置之由、被仰下候間、只
今罷下候、吉左衛門尉ハ忝之儀難申盡候間、能々御禮申上候様にと被申候事。
妻木吉左衛門の、奥方の親類である木野左兵衛を召し抱えて欲しいという要請に対しての、忠利→三斎の書状であるが、左兵衛が三百石を拝領しているところを見ると、三斎の指示があったのだろうか。
妻木吉左衛門とは「妻木貞(美濃國妻木を領す)の二男。文禄三年家康に初めて目見。慶長十八年五百石、のち千石。正保四年一月廿六日歿。」
妻木貞徳は「天文十三年(1544)~元和四年(1618)二月十三日。源二郎、伝兵衛。致仕号伝入。いは「貞行」とも。藤右衛門の子。明智光秀の妻の従兄弟という(寛永伝)。美濃妻木村の領主。信長に仕え、馬廻(寛永伝)。本能寺の変後、さいちを子頼忠に譲って隠居。だが、慶長五年(1600)の動乱の時、東軍として西軍の田丸直昌(直息)と戦った(重修譜)。元和四年没、七十五歳という(寛永伝)。」
(戦国武将列伝より引用)
妻木氏はガラシャ夫人の生母の家系である。その故の召出しである。