津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・神西氏

2009-10-08 17:22:03 | 歴史
 このような苗字に出くわすと、その読みに戸惑ってしまう。正解は「じんざい氏」である。

       武家家伝-神西氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/zinzai_k.html
       神西城        www.k3.dion.ne.jp/~tnk/01siro/zinzai/zinzai.html

 これらの資料と、肥後細川家家臣・神西氏とどう繋がるのかは、現況はきとしない。

侍帳を見ると、初代を長右衛門としている。 
     与三右衛門
     金右衛門(与三右衛門) 
              (1)御弓二拾挺頭 千石  (於豊前小倉御侍帳)
              (2)御弓頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)
              (3)千石  (真源院様御代御侍免撫帳)
    1、長右衛門  (1)一番長岡右馬助組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
              (2)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
              (3)長岡帯刀組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)

しかし父親・金右衛門(与三右衛門)は、豊前から肥後に入り光尚代までの消息がはっきりしている。細川幽齋の葬儀に当たっては、「惣奉行ハ長岡式部興長・沢村大学吉重・益田蔵人正重、御火屋廻之警固、神西与三右衛門・牧丞大夫なり」と記録されている。
また、豊前時代の忠利の参勤のお供の名附けにもなまえがあり、弓頭-四十挺とみえる。
長右衛門の家禄は別禄であり、父親の禄は収公されたのであろうか。
千石の家禄を考えると、その出自が相応の者でなければならない。武家家伝-神西氏へ繋がる資料はないか、ご存知の方がおられたらご教示賜りたい。
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細川家家臣・田部氏

2009-10-08 10:02:57 | 歴史
                             違い山形紋

 川口恭子先生が編纂された「細川家家臣略歴」には記載されていないが、「肥陽諸士鑑」に五代にわたる田部家の記載がある。松本寿三郎先生の「肥後細川家侍帳」その他の記事を抜書きすると、総体次のようになる。

    一、主水  御鉄炮三十挺頭 九百五十石  (於豊前小倉御侍帳)
    子、平助入道水月 
          (1)御鉄炮頭衆・三拾挺 七百石  
          (2)御側物頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
          (3)千石  (真源院様御代御侍免撫帳)
          (4)有吉頼母允組 御小姓頭 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
          (5)御詰衆・六番岩越忠右衛門組 御花畑御目付 千石 
                            (御侍帳・元禄五年比カ)
          (6)人持衆、番頭并組迯衆 千石            

            寛文四年(三拾挺頭)~延宝元年十二月 小姓頭
            延宝元年~延宝八年(隠居) 番頭

    子、十郎兵衛   細川綱利公御書出(天和三年)千石
    子、平助(養子 実・佐分利作左衛門二男)
    子、平助一政(養子 実・貴田孫兵衛三男) 
            千石 御番方七番組 屋敷・千反畑


佐分利作左衛門とは八百石の佐分利家だが、初代・二代・三代と作左衛門を名乗っており、人物の特定が出来ないが二代目ではないかと思われる。御鉄炮三十挺頭等を勤めている。
貴田孫兵衛とは、貴田家二代の孫兵衛・入道休意 御弓廿張頭・大九郎組 五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)と思われる。

これ以降のことが判らないでいるが、田部家に何が起ったのかようとして知れない。
コメント (1)
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