+---細川重賢--------------治年===斎茲----斎樹=======斎護・・・・・・・・→細川宗家
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+---幾姫(清源院) ∥
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∥ +--埴姫 +---立政(斎護)
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+---細川興里===興文---+----立礼(斎茲)---立之---+---行芬・・・・・・・→宇土細川家
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+-------興文----・
治年は生まれ(宝暦九年・1759)ながらの虚弱体質だったらしく、明和七年(1770)になってようやく嫡子届け出が提出された。綿考輯録の編者・小野武次郎が傳役を勤めた。宇土細川家の興文女・幾姫が輿入れしたのは天明二年(1782)である。しかしながら治年は天明九年(1789)29歳で亡くなる。幾姫は四歳年上の姉様女房であった。結婚生活は七年である。跡継ぎには幾姫の弟・立礼(宇土支藩・七代藩主)が指名されたが、立礼は新田藩を慮ってこれを固辞したが、興里公夫人・清源院(重賢同腹妹)の強力な説得でこれを受けることと成った。細川斎茲である。宇土支藩は嫡男・立之がわずか四歳で跡式相続した。宗家を継ぐのは、斎茲が宗家を相続した後に誕生した二男斎樹である。
治年の死をもって、ガラシャ夫人の血が途絶えた。
幾姫は二本木(熊本市)屋敷に住まいして、享和三年49歳で没した。共に妙解寺に葬られている。
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+---幾姫(清源院) ∥
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∥ +--埴姫 +---立政(斎護)
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+---細川興里===興文---+----立礼(斎茲)---立之---+---行芬・・・・・・・→宇土細川家
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治年は生まれ(宝暦九年・1759)ながらの虚弱体質だったらしく、明和七年(1770)になってようやく嫡子届け出が提出された。綿考輯録の編者・小野武次郎が傳役を勤めた。宇土細川家の興文女・幾姫が輿入れしたのは天明二年(1782)である。しかしながら治年は天明九年(1789)29歳で亡くなる。幾姫は四歳年上の姉様女房であった。結婚生活は七年である。跡継ぎには幾姫の弟・立礼(宇土支藩・七代藩主)が指名されたが、立礼は新田藩を慮ってこれを固辞したが、興里公夫人・清源院(重賢同腹妹)の強力な説得でこれを受けることと成った。細川斎茲である。宇土支藩は嫡男・立之がわずか四歳で跡式相続した。宗家を継ぐのは、斎茲が宗家を相続した後に誕生した二男斎樹である。
治年の死をもって、ガラシャ夫人の血が途絶えた。
幾姫は二本木(熊本市)屋敷に住まいして、享和三年49歳で没した。共に妙解寺に葬られている。