津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川治年と姉様女房埴姫(揺臺院)

2009-10-23 17:21:18 | 歴史
 +---細川重賢--------------治年===斎茲----斎樹=======斎護・・・・・・・・→細川宗家
 |                    ∥
 +---幾姫(清源院)         ∥
      ∥               ∥
      ∥           +--埴姫             +---立政(斎護
      ∥           |                  |
 +---細川興里===興文---+----立礼(斎茲)---立之---+---行芬・・・・・・・→宇土細川家      
 |           ↑                     
 +-------興文----・
         
 治年は生まれ(宝暦九年・1759)ながらの虚弱体質だったらしく、明和七年(1770)になってようやく嫡子届け出が提出された。綿考輯録の編者・小野武次郎が傳役を勤めた。宇土細川家の興文女・幾姫が輿入れしたのは天明二年(1782)である。しかしながら治年は天明九年(1789)29歳で亡くなる。幾姫は四歳年上の姉様女房であった。結婚生活は七年である。跡継ぎには幾姫の弟・立礼(宇土支藩・七代藩主)が指名されたが、立礼は新田藩を慮ってこれを固辞したが、興里公夫人・清源院(重賢同腹妹)の強力な説得でこれを受けることと成った。細川斎茲である。宇土支藩は嫡男・立之がわずか四歳で跡式相続した。宗家を継ぐのは、斎茲が宗家を相続した後に誕生した二男斎樹である。
 治年の死をもって、ガラシャ夫人の血が途絶えた。
幾姫は二本木(熊本市)屋敷に住まいして、享和三年49歳で没した。共に妙解寺に葬られている。
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細川重賢夫人・有隣院

2009-10-23 07:13:43 | 歴史
 細川重賢夫人由婦姫は久我右大臣通兄卿女である。細川家と久我家の縁は綱利養女(実・細川利重女)具姫が久我右大臣惟通卿に嫁いだ事に始まる。

   +--綱利---+==宣紀---+--宗孝====重賢---治年・・・・・・→細川宗家
   |       |      |        ∥
   |       |      +--重賢    ∥
   |       |                ∥   
   |       +==具姫           ∥
   |           ∥            ∥
   |          久我惟通---通兄---由婦姫
   |
   +--利重---+--利昌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→新田藩
           |
           +--利武(宣紀
           |
           +--具姫

 二人の婚儀は寛延三年(1750)二月廿七日、重賢31歳・由婦姫21歳である。ところが宝暦の中ごろ由婦姫は眼疾にかかり失明している。世子のないことを憂いた由婦姫は重賢に側室を迎えることを進めたという。金沢氏此井に胤次(治年)が生まれた。宝暦九年(1759)のことである。由婦姫は寛政六年(1794)十一月に竜口邸で亡くなった。享年六十五。賢夫人の名に恥じないお方である。
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