三家衆
■ (松井)佐渡殿
章之(養子 実・督之弟 豊松 式部 佐渡)
天保三年十二月~文久三年三月(致仕・隠居)家老職
明治二年九月本姓松井に復す 明治二十年六月歿(七十五歳)
(松井文庫・江戸までの風景~道中風景絵巻~)
■ (米田)監物殿
是容(源三郎)
天保三年家督、家老職、大組頭 嘉永六年二月軍備総帥として浦賀出張
安政六年八月十一日歿・四十七歳
天保三年九月~弘化四年三月 家老
天保三年十月~安政六年八月(病死)備頭大頭
* 名は是容(コレカタ)、監物と称す、本姓米田長岡の称号を許され、世々家老職たり。
禄一万五千石、年二十、家を継ぎ軍師を兼ぬ。深く累代勲舊の誼を感じて報復の志
を存するも、同列に阻まれて果たす事を得ず、尋いで文武総裁となりて教学を明にし、
人材を育し藩政に貢献する所あらんとす。監物程朱の学を信じ平生為す所躬行を先
にし、専ら実学に従事し、且心身の鍛練に努め、厳冬烈暑と雖も其力行自勵人の耐
えざる所なり。嘉永癸丑米艦浦賀に来る、幕府予め藩公をして浦賀を管せしむ。
藩公斎護特に命じて召す、監物常に外患の不測を以て憂となす、命を聞き直に江戸
に至る。名望都下を動かす。(中略)中年閑退して道徳円熟し、一門之に化す、又家
臣の為に学舎を設け必由堂と名付く。
安政六年八月十日歿す、年四十七。坪井見性寺に葬る。後年贈正四位。
* 実学党坪井派(明徳派-道徳の理論的究明)の首領として、実学党沼山津派(新民
派-庶民のための政治)の横井小楠に対した。
■ (有吉)頼母殿
有吉家18代、頼母(養子・16代立生嫡子 立道)
嘉永五年家督、家老職、大組預 安永五年七月歿
御家老
■ (平野)九郎右衛門殿
7代、常之助(九郎右衛門) 御留守居大頭 二千四百石
文政九年十一月~文政十二年二月 用人
文政十一年二月~天保二年六月 大御目付
天保二年六月~天保十三年八月 中老
天保十三年八月~安政三年八月 家老
平野保 名は長久、九郎右衛門と称す。国老兼大奉行たり。心を国事に傾け、大計を
擔当し、叉水利開墾等に於ける功績最も多し。
万延元年十月二十七日没す。年六十三。
■ (大木)舎人殿
8代、舎人・福蒿
文政十二年家督 比着座、番頭、留守居大番頭、中老職、家老職、大組頭、
大奉行兼家老職 文久三年十二月致仕 明治十一年歿
■ (溝口)蔵人殿
7、武啓太(養子 実・政勝末子 権之助、蔵人・貞直)
文政十一年九月跡目相続、中着座、番頭、大目付、大奉行、中老職、家老職
文久元年八月致仕・号孤雲 家老職再任 明治五年三月十三日歿・六十四歳
天保三年五月~天保四年九月 用人
天保四年九月~天保八年六月 大御目付
天保八年六月~安政五年九月 大奉行
天保十三年八月~嘉永五年十一月 中老
嘉永五年十一月~万延元年十二月 家老
万延元年十一月~万延元年十二月 大奉行
孤雲 慶応三年三月~明治元年七月 家老(隠居後・再任)
溝口孤雲 名は貞直、初は蔵人と称し、後孤雲と称す。竹雨、鳳屋等の号あり。
食禄三千石、中老より家老に進み大奉行を兼ぬ。
維新の際は藩公に代りて出京し斡旋大に力む。
後召されて参与となり徴士に挙げらる。
明治五年三月十三日没す。年六十四。墓は北岡安国寺。後従五位を贈らる。
御中老
■ (沢村)衛士殿
9代、伊勢太郎(宇右衛門・衛士)
文政十二年六月家督、組外、備頭、大目付、中老職 安政二年十一月致仕
明治七年七月六日歿・六十四歳
天保三年二月~天保十三十一月年 備頭大頭
天保十三年十一月~弘化四年三月 大御目付
弘化四年三月~安政元年十月 中老
■ (小笠原)備前殿
10、美濃長洪(養子 実・宮村実義二男美貴 弘之助 備前 七郎 寛)
差紙 (天保三年十一月) 六千石
天保三年十一月跡目 備頭・大目附・中老職・家老職 明治元年八月免
明治二年三月執政 三年正月家令 三年六月権大参事
大御目附
■ 朽木内匠
9代、多仲・昭吉(内匠)
天保二年家督、中着座、番頭、用人、大目付、中老
文久二年十二月致仕、慶応三年正月二日歿
■ (松井)佐渡殿
章之(養子 実・督之弟 豊松 式部 佐渡)
天保三年十二月~文久三年三月(致仕・隠居)家老職
明治二年九月本姓松井に復す 明治二十年六月歿(七十五歳)
(松井文庫・江戸までの風景~道中風景絵巻~)
■ (米田)監物殿
是容(源三郎)
天保三年家督、家老職、大組頭 嘉永六年二月軍備総帥として浦賀出張
安政六年八月十一日歿・四十七歳
天保三年九月~弘化四年三月 家老
天保三年十月~安政六年八月(病死)備頭大頭
* 名は是容(コレカタ)、監物と称す、本姓米田長岡の称号を許され、世々家老職たり。
禄一万五千石、年二十、家を継ぎ軍師を兼ぬ。深く累代勲舊の誼を感じて報復の志
を存するも、同列に阻まれて果たす事を得ず、尋いで文武総裁となりて教学を明にし、
人材を育し藩政に貢献する所あらんとす。監物程朱の学を信じ平生為す所躬行を先
にし、専ら実学に従事し、且心身の鍛練に努め、厳冬烈暑と雖も其力行自勵人の耐
えざる所なり。嘉永癸丑米艦浦賀に来る、幕府予め藩公をして浦賀を管せしむ。
藩公斎護特に命じて召す、監物常に外患の不測を以て憂となす、命を聞き直に江戸
に至る。名望都下を動かす。(中略)中年閑退して道徳円熟し、一門之に化す、又家
臣の為に学舎を設け必由堂と名付く。
安政六年八月十日歿す、年四十七。坪井見性寺に葬る。後年贈正四位。
* 実学党坪井派(明徳派-道徳の理論的究明)の首領として、実学党沼山津派(新民
派-庶民のための政治)の横井小楠に対した。
■ (有吉)頼母殿
有吉家18代、頼母(養子・16代立生嫡子 立道)
嘉永五年家督、家老職、大組預 安永五年七月歿
御家老
■ (平野)九郎右衛門殿
7代、常之助(九郎右衛門) 御留守居大頭 二千四百石
文政九年十一月~文政十二年二月 用人
文政十一年二月~天保二年六月 大御目付
天保二年六月~天保十三年八月 中老
天保十三年八月~安政三年八月 家老
平野保 名は長久、九郎右衛門と称す。国老兼大奉行たり。心を国事に傾け、大計を
擔当し、叉水利開墾等に於ける功績最も多し。
万延元年十月二十七日没す。年六十三。
■ (大木)舎人殿
8代、舎人・福蒿
文政十二年家督 比着座、番頭、留守居大番頭、中老職、家老職、大組頭、
大奉行兼家老職 文久三年十二月致仕 明治十一年歿
■ (溝口)蔵人殿
7、武啓太(養子 実・政勝末子 権之助、蔵人・貞直)
文政十一年九月跡目相続、中着座、番頭、大目付、大奉行、中老職、家老職
文久元年八月致仕・号孤雲 家老職再任 明治五年三月十三日歿・六十四歳
天保三年五月~天保四年九月 用人
天保四年九月~天保八年六月 大御目付
天保八年六月~安政五年九月 大奉行
天保十三年八月~嘉永五年十一月 中老
嘉永五年十一月~万延元年十二月 家老
万延元年十一月~万延元年十二月 大奉行
孤雲 慶応三年三月~明治元年七月 家老(隠居後・再任)
溝口孤雲 名は貞直、初は蔵人と称し、後孤雲と称す。竹雨、鳳屋等の号あり。
食禄三千石、中老より家老に進み大奉行を兼ぬ。
維新の際は藩公に代りて出京し斡旋大に力む。
後召されて参与となり徴士に挙げらる。
明治五年三月十三日没す。年六十四。墓は北岡安国寺。後従五位を贈らる。
御中老
■ (沢村)衛士殿
9代、伊勢太郎(宇右衛門・衛士)
文政十二年六月家督、組外、備頭、大目付、中老職 安政二年十一月致仕
明治七年七月六日歿・六十四歳
天保三年二月~天保十三十一月年 備頭大頭
天保十三年十一月~弘化四年三月 大御目付
弘化四年三月~安政元年十月 中老
■ (小笠原)備前殿
10、美濃長洪(養子 実・宮村実義二男美貴 弘之助 備前 七郎 寛)
差紙 (天保三年十一月) 六千石
天保三年十一月跡目 備頭・大目附・中老職・家老職 明治元年八月免
明治二年三月執政 三年正月家令 三年六月権大参事
大御目附
■ 朽木内匠
9代、多仲・昭吉(内匠)
天保二年家督、中着座、番頭、用人、大目付、中老
文久二年十二月致仕、慶応三年正月二日歿