津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

清源院さま

2009-10-10 14:00:27 | 新聞
 今日の熊本日々新聞は、「細川重賢の妹・清源院の手紙みつかる」と報じている。まったくの偶然だが「宣紀の憂鬱」で取り上げた子供のひとりである。天明四年甥で宇土藩主・和泉守立禮に宛てた書状である。立禮はのち本藩を相続(天明七年)して斉茲になるのだが、こちらも偶然だが県立美術館・永青文庫展示室で斉茲に関する展示が始まっている。

2007-08-09のブログ「清源院様湯治の旅」を書いた。一部再掲する。

 清源院とは細川宣紀の第九女(幾姫・軌姫)で、宇土細川家五代藩主興里に嫁いだ。延享二年正月の事だが、その年の十月興里は亡くなっている(22歳)。わずか十ヶ月にも満たない結婚生活である。その清源院が天明二年肥後国日奈久温泉(現八代市)に湯治のため熊本にやってきている(58歳)。歳の変わらぬ義弟興文(六代藩主・当時は隠居し月翁)が、大津(熊本市の東・現大津町)まで出迎えている。その旅の行き返りの様子を記した紀行文「海辺秋色」「山路の青葉」が残されている。ぜひ読んでみようと思っている。

 処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明七年十一月のことであった。

 清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。


手紙の内容によると義弟興文の容態(中風)を尋ねたりしている。興文は翌天明五年の正月に死去した。貴重なこの書状は宇土市に寄贈されるらしいが、ぜひとも本物にお目にかかりたいものだ。
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宣紀の憂鬱

2009-10-10 07:48:50 | 歴史
 宣紀には正室が無い。以下の一覧は宣紀の子供達である。宣紀は細川新田藩・細川利重の二男だが、綱利により5,000石が内分され寄合衆となった。宝永五年正月十九日に綱利の養嗣子となり、正徳二年七月十一日に家督した。六人の妾に八男十三女をもうけた。処が男女十人が夭折している。

   竹之助(夭折・三歳)
   蔵(夭折・六歳)
   亀(夭折・六歳)
   八三郎(夭折・六歳)
 ・・・養子となる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   名世(夭折・五歳)
   萬次郎(夭折・一歳)
 ・・・家督相続す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   村(夭折・三歳)
   富(夭折・三歳)
   勝(夭折・三歳)
   宗孝(七代)
   花(松平讃岐守頼恭室)
   喜和(宗対馬守義如室)
   重賢(八代)
   千代(安藤対馬守信尹室)
   豊、常、岑(織田山城守信舊室)
   紀休(65歳)
   衛世、悦(長岡助右衛門是福室)
   幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
   津與(小笠原備前長軌室)
   興彭(長岡図書興行・養子)
   龍五郎(家老・木村半平戸豊持養子・夭折三歳)

 宗孝の誕生を迎えるまで、宣紀は九人の子供を亡くしている。やるせない気持ちで続け様になくなる子等の死を眺めていたのだろう。鬱々たる気持ちであったろう。最後の子龍五郎も養子先で三歳で亡くなっているが、其の他の人たちは立派に成人した。正室を迎えぬままの宣紀の心の内は、窺い知ることは出来ない。
              
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