今日の熊本日々新聞は、「細川重賢の妹・清源院の手紙みつかる」と報じている。まったくの偶然だが「宣紀の憂鬱」で取り上げた子供のひとりである。天明四年甥で宇土藩主・和泉守立禮に宛てた書状である。立禮はのち本藩を相続(天明七年)して斉茲になるのだが、こちらも偶然だが県立美術館・永青文庫展示室で斉茲に関する展示が始まっている。
2007-08-09のブログ「清源院様湯治の旅」を書いた。一部再掲する。
清源院とは細川宣紀の第九女(幾姫・軌姫)で、宇土細川家五代藩主興里に嫁いだ。延享二年正月の事だが、その年の十月興里は亡くなっている(22歳)。わずか十ヶ月にも満たない結婚生活である。その清源院が天明二年肥後国日奈久温泉(現八代市)に湯治のため熊本にやってきている(58歳)。歳の変わらぬ義弟興文(六代藩主・当時は隠居し月翁)が、大津(熊本市の東・現大津町)まで出迎えている。その旅の行き返りの様子を記した紀行文「海辺秋色」「山路の青葉」が残されている。ぜひ読んでみようと思っている。
処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明七年十一月のことであった。
清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。
手紙の内容によると義弟興文の容態(中風)を尋ねたりしている。興文は翌天明五年の正月に死去した。貴重なこの書状は宇土市に寄贈されるらしいが、ぜひとも本物にお目にかかりたいものだ。
2007-08-09のブログ「清源院様湯治の旅」を書いた。一部再掲する。
清源院とは細川宣紀の第九女(幾姫・軌姫)で、宇土細川家五代藩主興里に嫁いだ。延享二年正月の事だが、その年の十月興里は亡くなっている(22歳)。わずか十ヶ月にも満たない結婚生活である。その清源院が天明二年肥後国日奈久温泉(現八代市)に湯治のため熊本にやってきている(58歳)。歳の変わらぬ義弟興文(六代藩主・当時は隠居し月翁)が、大津(熊本市の東・現大津町)まで出迎えている。その旅の行き返りの様子を記した紀行文「海辺秋色」「山路の青葉」が残されている。ぜひ読んでみようと思っている。
処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明七年十一月のことであった。
清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。
手紙の内容によると義弟興文の容態(中風)を尋ねたりしている。興文は翌天明五年の正月に死去した。貴重なこの書状は宇土市に寄贈されるらしいが、ぜひとも本物にお目にかかりたいものだ。