津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

買うべし

2009-10-21 23:14:00 | 書籍・読書


織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ

 
著者:金子 拓 (東京大学史料編纂所助手)
www.hi.utokyo.ac.jp/personal/kaneko/index.htm

発行:勉誠社
定価:3990円(本体3800円)
刊行日 2009年10月(予定)

いつ発刊になるのか、気になってしょうがない。

【内容紹介】
・解説 信長の生涯はいかに記録され伝わったか――
    信長の家臣太田牛一が著した『信長記』。
    複数残る自筆本や写本の系統分類と比較検討をとおして、成立・伝来に関わった
    中世末から近世にかけての人びとの歴史に対する向きあいかたに迫る。

【目次】
    はじめに

   序章 『信長記』とは何か
     一 歴史叙述としての『信長記』
       『信長記』の史料的性格/『信長記』の信憑性/近代歴史学と『信長記』/
       「物語り文」と『信長記』
     二 『信長記』研究の歴史
   第一章 『信長記』の諸伝本と系統
       『信長記』の完成形態/十五巻本の二系統/「首巻」の位置づけ/
       『信長記』関係の異本群/残闕本・抄写本・不明本

   第二章 軍記作者太田牛一
     一 信長以前・信長時代の牛一
       太田牛一の人物像/牛一の生い立ち/「武衛臣下」としての牛一/
       信長家臣としての牛一/牛一の名乗り
     二 秀吉時代の牛一
       太田家系図のなかの牛一/太閤検地と牛一/朝鮮出兵と牛一/
       「太閤御代度々御進発の記」/秀頼付としての牛一
     三 記録作者としての太田牛一
       牛一の著作歴/牛一の死と彼の子孫/記録作者としての太田牛一/
       太田牛一の「軍記」

   第三章 池田家本系『信長記』の諸本
     一 自筆本池田家本
     二 池田家本系の写本(一)―聖藩文庫本系
     三 池田家本系の写本(二)―非聖藩文庫本系

   第四章 『信長記』を求めた人びと
     一 池田家と『信長記』
       牛一著作の享受者たち/『信長記』が池田家に入った経緯/
       改装された池田家本 他

     二 『信長記』の評判
       小瀬甫庵と『甫庵信長記』/最初の『信長記』批評/大久保彦左衛門の
       『甫庵信長記』評/『信長記』への不満/『信長記』を求めて 他

   第五章 建勲神社本系『信長記』の諸本
     一 自筆本建勲神社本について
       建勲神社本伝来に関する史料/芝村織田家に『信長記』が入るまで/
      「首巻」の位置づけ/建勲神社本に残る謎/その後の建勲神社本
     二 建勲神社本系の写本について
       建勲神社本の直系の写本/「首巻」と十五巻の問題 他

   第六章 ふたつの太田家とその伝本
     一 個人蔵本/二 太田家本/三 加賀太田家に伝来された本

   第七章 『信長記』と織田家
     一 織田長清と牛一自筆本の出会い
       織田長清の『信長記』蒐集/牛一自筆本の代償
     二 佐々宗淳と『信長記』
       佐々宗淳と織田家/史臣佐々宗淳/佐々宗淳と織田長清/大和穴師坐
       兵主神社の復興/織田氏系譜と宗淳/織田長清と学問/牛一自筆本の
       奥書執筆/織田家と妙心寺・龍安寺/信長肖像画をめぐって/長清の
       師としての佐々宗淳
     三 『織田真紀』と織田長清
       『織田真紀』という書物/芝村織田家所蔵の『織田真紀』/『織田真紀』
       の出版過程/『織田真紀』回収騒動/『織田真紀』の刊行意義

   終章 『信長記』の彼方へ
     一 『信長記』の成立
       素材から草稿へ/改稿の諸段階/併存する稿本/牛一著述の特徴/カード
       システムについて/「首巻」について/書名について
     二 『信長記』に関わった人びと
       『信長記』という「歴史叙述」/牛一にとっての歴史/歴史と「生きてい
       るシステム」のはざま/織田家に取り戻された歴史/『信長記』から歴史
       へ

   あとがき
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柿(かき)と柿(こけら)

2009-10-21 10:21:32 | 徒然
 「柿」好きの妻が、友人のお宅から枝付きの「柿」を頂戴してきた。小振りだが中々いける。熊本に住んでいると、時折こんなこともあって有りがたいことだ。「柿」をいただきながら、妻にちょっと薀蓄をたれた。

 柿は「かき」、柿は柿葺(こけらぶき)の「こけら」、実はまったく別物の文字なのだそうだが、こうしてタイピングすると同じ文字が表記される。
「かき」は木編に亠を書いて巾で九画、「こけら」は木編に一、そして巾の縦棒を一の上から突き抜けるよう書いて八画・・・これが正解。以前ある講座の講師を務めたときに話をしたら、殆どの人がご存じなかった。「杮葺」とは板葺きのことを言うのだが、この材料には「柿=かき」も使っていた。(このあたりで怪しくなる)「こけら落し」と言う言葉があるが、新しく出来た舞台の木っ端(こけら)を掃除して完成を祝うという意味がある。「杮葺」のこけらは、薄くへいだ「木っ端板」ということになる。瓦の仕様が許されなかった時代、庶民の住まいに多く使われた。お江戸の幾たびかの大火の原因は、この燃えやすい長屋の屋根にあったことは、間違いない。(熊本はといえば、柿葺きよりわら葺きが多かったようだ)

 あと一月もすれば渋柿を手に入れて、お正月用の干し柿を作らなければならない。母が亡くなってからは妻の仕事になったが、別に面倒がることもなく4・50個ほどを作っている。あちこちのお宅の軒先に赤黄色の玉すだれが見られるようになる。今年も二ヶ月ちょっととなった。
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細川家家臣・荒木(山城)家

2009-10-21 09:41:36 | 歴史
  (註)こちらの荒木氏は荒木山城を祖とする荒木氏で、荒木攝津村重流とは全く関係ない。
■山城(左助 高則)【丹後以来】 
   荒木高則朝鮮にて両度軍功を励し、弟荒木太郎助高基文禄二年二月朔日討死
                         (綿考輯録・巻11-p113)
   岐阜戦功・首取候衆
   田辺衆・高則、後号山城助左衛門并外斉等か親なり、今の助十郎小助運次等か祖なり
   高則ハ、高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死
                         (綿考輯録・巻14-p257)
  (慶長六年)七月七日、於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応
  (一書)・・・荒木左助ハ此時まて与十郎殿ニ居たりしか、高木貞盛之中脇差・御帷子ニ被
    下候、後御直ニ成山城と名付られ候、父ハ民部大輔と云、祖父を山城と云、丹波士也、
    藤孝君・忠興君・明智氏と共ニ嶺山の城御踏潰し被成候時、民部明智氏へ居候而振
    舞悪しく候間、民部か事ハ何の仰もなく、祖父ニも負ぬ働したれは、荒木山城と御付被
    成候との事なりと云々、荒木助十郎か家記ニハ、荒木山城守高子丹波の国荒木の城
    を守り、其子民部大輔高兼共ニ甚武功を彰し、後明智光秀ニ属し、光秀生害の時、左
    馬助光春安土より坂本に帰る道筋にて危きを助け、父子共ニ討死いたし候、高兼子高
    則此時十四歳、纔に残兵三人を随て愛宕山下坊ニ入、其後丹後ニ赴く、藤孝公ニ仕て
    田辺ニ在、又忠興公ニ仕へ朝鮮にて両度軍功を励、岐阜の城攻に両度鑓を合、関原ニ
    て武功有、此働を御感賞、其日の晩に及御腰物を被下と云々、翌年拝領の事ハ見江不
    申候                          (綿考輯録・巻17-p411)
・1代、助左衛門 高則の子太郎助十三歳にて田辺城籠城  
     (1)御鉄炮五拾挺頭 五百石 丹後 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
     (2)御添頭衆 五百石 (肥後御入国宿割帳)
     (3)御使番・續団右衛門組二百石、京都詰ノ間八木百石被下之
                         御使番列高百ノ物成被下之
                                (御侍帳・元禄五年比カ)
・2代、助十郎・元依 (後・左次馬) 正徳元年十月~正徳五年八月(病死)用人
・3代、左次馬・元雅(初・又次郎) 
     (1)八百石 御着座大組付 屋敷・山崎
     (2)御留守居御番頭 八百石
    享保八年六月(大組附)~享保十四年十二月 中小姓頭(留守居番頭)
    享保十四年十二月(中小姓頭)~延享四年二月 留守居番頭(番頭)
    延享四年二月~宝暦六年八月 番頭
・4代、助十郎 
     (1)御使番 六百石 宝暦十一巳二月十八日当役
     (2)御鉄炮廿挺頭 六百石
・5代、新左衛門
・6代、熊八(後・助左衛門) 御鉄炮三拾挺頭・清水組 五百五十石
・7代、恒次郎(後・助十郎) 新知五百五十石
・8代、長次郎(後・左次馬) 
・9代、猪熊(後・慎十郎)  下間求馬組御番方二番組 四百五十石(又・五百石トモ)

      
次郎大夫(外斉 助左衛門弟)
   山城項より
   外斎とハ助左衛門弟次郎大夫か事なり、三百石被下置候処、御暇被下松平越中殿へ有
   付候へと又致浪人、後小笠原備前にかかり病死いたし候(綿考輯録・巻14-p257)

 荒木山城流略系図 (責・津々堂)
   +--山城---+--助左衛門----+---十次郎・・・・・・・・・→慎十郎家
   |       |          |
   |       |          +--・一郎左衛門・・・・・・→七十郎家
   |       |
   |       +--次郎大夫(外斎)
   |       |
   |       +--貞右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→太平家
   |       |
   |       +--佐助 300石 承應元年12月御暇  (兄弟関係の順不明)
   |
   +===四郎右衛門(彦大夫 実・市村四郎三郎子) 
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見上げてごらん夜の星を♪♪

2009-10-21 00:33:40 | 徒然
 オリオン座流星群を見ようと0時前からベランダに出て東の空を見上げる。周りがあかるくて七つ星を見つけるのも容易ではない。目が慣れてきて三つ星と、源氏・平家星を発見、乱視の私には夫々が二つずつ見えるというおまけつきである。日が変わって随分冷え込んできた。明け方は昨日より7℃ばかり気温が下がると予報されているが、あながち間違いでは無さそうな感じである。妻は二三個見つけたようだが、私は首が痛くなって撤退、このタイピングを終えたら今一度空を見上げて、寝ることにしよう。一両日「見上げてごらん夜の星を♪♪」である。
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