津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■到来「新潟の笹団子」

2020-05-04 19:46:25 | 徒然

                     

 奥方が下の階の90歳のおばあちゃんと親しくしている。東北のご出身だと聞いたが、先日は一人では食べきれないからと「粽」を頂戴した。
実家から送られてきたのだそうだが、たしか「新潟の・・」と仰ったのでググってみたら、まさに頂戴したもの全く同じ姿の写真があった。

「新潟の笹団子」だという。一個を笹の葉三枚で巻き、イグサで〆てある。四個をまとめてあって、まったくこの写真の通りである。
小豆あんの草団子で、ほのかに佐々の匂いがする。端午の節句を前にして、おいしくいただいた。
あすは、疫病退散を念じて、菖蒲の葉を買ってこようかと思っている。アマビエと並べて置けば効力抜群であろう。
「緊急事態宣言」が今月いっぱいに伸びて、まだまだ長い忍耐を強いられる。

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■柳沢市正とは・・

2020-05-04 17:08:08 | オークション

                   古い柳沢市正(薮田重守)宛て肥後熊本4代藩主・細川宣紀消息軸・肉筆・箱・大名消息

                                             

    柳沢市正にあてた細川宣紀の書状である。柳沢市正(薮田重守)とは柳沢吉保の家老を勤めた人物である。
細川家と柳沢家の関係は深いものがあり、宣紀の父(養父)・綱利が柳沢吉保の邸宅に夜になると通いつめ、「夜中越中」といわれた逸話が残る。
夜になると来客の多い吉保邸に詰めたということである。又、二人の男子が亡くなると、吉保の三男・安基を養嗣子に迎えようとさえしている。これは幕府の反対により実現しなかった。
このような事から綱利と市正も親しい間柄であったろうし、宣紀も又交流が続いていたのであろう。
実は、細川家家臣に「薮田氏」がある。まさに薮田重守の嫡子を初代としている。過去にもいくつか記事を書いている。

             ・綱利と柳沢吉保の仲・・?  ・夜中越中 ・細川家家臣・薮田氏

中学校の同級生に薮田姓の女の子がいた。熊本に薮田姓は珍しい。細川家家臣であったのではないかと思っているが、結婚して渡米されたと聞く。
これでは確認の仕様がない。

   

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■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 25(原文31分)

2020-05-04 09:19:01 | 史料

31         存之外すくなき由取沙汰御座候由尤さやうニ
          可申わけ御座候 原之城へよせ申鍋嶋殿人数
          万五千之付上ヶ 上使衆へ仕之由申候 本有人数
          ハ参万五千にて御座候へ共余多御座候ニ付公儀ヘハ
          壱万隠置付上不申候由申候 小屋を見申所ニ鍋嶋殿
          小やハ中/\大そう成儀にて御座候 越中様
          寺沢殿有馬玄蕃殿松倉殿 上使之御衆不残
          一方ニ仕たる小屋ゟ鍋嶋殿小屋ハ多可在御座哉
          と見及申候事
         一松平伊豆殿戸田左門殿薩广へ御越之由河尻
          ニて其御さた御座候 嶋原ニてハ何たるさたも無
          御座候 井関長左衛門下村傳蔵ニも尋申候へ共薩广へ
                    弥手
          御越之さたハ不存由申重而言上可仕候事
         一石火矢大筒千万ニ一八代へもかりニ来候者左様之
          物ハ一切無御座候由申候て借不申よくかくし
          候て置可申旨奉得其意候 爰宛ニて熊本衆
          にても相尋申候共一切無御座候由可申候事
         一原之城之絵圖差上申所ニ誰之よせ口ゟハ城へ

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■細川小倉藩(219)寛永四年・日帳(五月廿三・四日)

2020-05-04 06:14:10 | 細川小倉藩

                      (寛永四年五月)廿三・四日 

         |
         |    廿三日  奥村少兵衛
         |
         |    (幸長)                                            (取脱)
日向ヨリノ新造船 |一、野田小左衛門ゟ、南喜右衛門を使ニ〆、日向ゟ参候三艘ノ御舟、兵助・善右衛門ニ可被請由可申
ヲ船頭惣奉行へ請 |  渡通、被申越候事、
取ラシム     |
国中ノ運賃船難破 |一、御國中運賃舟ニ御荷物つミ申、大風大破ニ而、御荷物捨り候儀無紛ニ相極候ヘハ、先御代ゟ、不
シ御荷物捨レバ舟 |  構舟法御損ニ成申候、今以弥御損ニ成申筈ニ、白井兵介・鏡善右衛門・百留忠左衛門相談ニて、
法ニ構ハズ御損ト |  相極候事
ナル筈      |
船頭惣奉行浦奉行 |
等確認決定ス   |
江戸京大坂ヘノ音 |一、藤田宗利ニ渡申状共之覚
信ノ覚      |  一、言上之状 壱つ箱ニ入、
         |  一、江戸御奉行衆へ之状 壱つ、
 永勝院遺書   |  一、永勝法院書置 壱つ、
         |  一、京へ之状共 一ゆい、
         |  一、大坂へ之状共 一ゆい、
         |

         |
         |    廿四日  加来二郎兵衛
         |
         |   (正次)
唐絵ヲ屏風ノ絵本 |一、嶋又左ニ在之唐絵、御屏風ノ絵本ニ仕度候間、かり可申由、道倫日申ニ付、かり候て、ゑかき三
ニ借リ絵師矢野吉 |  郎兵衛ニ渡候事、但、右物数五枚也、
重へ貸与ス    |
         |         御左官                         (松本)(豊岡)
左官病死     |一、去ル廿二日ニ、須田弥市病死仕由、河田八右衛門尉被申候事、彦進・甚丞へ申渡候事、
弓矢師ノ細工場  |一、藤田宗利、江戸へ被 召寄候ニ付、御弓衆四人、洙山少八、合五人、今迄ハ宗利宿ニ而、矢を
         |               (蟹  喰)
         |  はき候へ共、宗利留守ゆへ、かにはミニて、御蔵手伝茂兵衛家ニて、細工可仕由、申渡候事、
中津領ノ小庄屋親 |一、蒲田次左衛門登城被仕、夷忠兵衛せかれ彦作儀、 三斎様御領之小庄屋仕申候処ニ、おや忠兵衛
ノ小倉領知行ヲ譲 |  知行を、 殿様へ申上、右之彦作ニゆづり申候、左候ヘハ、中津之御用、又、殿様之御用承候
与サル      |  儀、何共めいわく仕由申候、被申候、右ゟ中津御領之小庄やを仕なから、知行をうけ取候事、か
合点ナラズ    |  つてん不参候、御郡奉行衆御無念之由、申候ヘハ、元和九年か元年ノ春之儀ニ候哉、次左衛門其
親ニ奉公セシム  |  様子不存由被申候、先前々のことく、忠兵衛ニ御用可被申付由、申渡候事、
国東郡ノ牢建直シ |一、国東御郡之籠損申候間、新敷立直申度由被申候、一段可然由申渡候、就夫、人数八百人ほと入可
賃夫ニヨラズ郡夫 |  申由被申候、是ハ乍御用、各別儀ニ候而間、ちん米遣候ハて、御郡夫被仕可然申由申候、大工之儀
ヲ用フ      |                   〃
郡大工      |  ハ、御郡大工を仕可被申由、申候事、
         |         (国東郡)
三斎代ヨリノ高田 |一、先御代ゟ立在之、高田之御ちや屋こわし、毎年上ふきを仕置候ヘハ、御百性めいわく仕ニ付、如
ノ茶屋ノ処理   |  何可被仰付哉之通、中津御奉行衆へ、蒲田次左衛門被相尋候ヘハ、御代被渡進上ハ、左様之儀此
         |  方ゟ被成御構わけニて無之候間、いかやう共、小倉御奉行衆次第可仕由、被申渡通、次左衛門被
売払ニ決ス    |  申候ニ付、左候ハヽ、うり付可被申由、申渡候事、
土々呂木以心薬猟 |一、土々呂木以心被申候ハ、今時分在之薬種を取可申候、左候ハヽ、明後日ゟ御郡へ可罷出由、被申
         |  候、一段可然由申渡候、御馬等可申付由申候事、
         |   (長元)
         |一、小笠原民ア殿もの、江戸ゟ罷越候ニ、五月二日之 御書被成下候を持参、致頂戴候事、
         |

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