朝から降り続いた雨が、夕刻には上がって太陽が出ました。
地元のTV局が天気予報で虹が出ているというのでバルコニーに出てみると、七色が見事に太い虹がでていて慌ててデジカメで撮影しました。6:45頃のことです。
上の方は雲にさえぎられて半円にはなっていませんが・・・ そして右の家のうえにも薄い虹が立っていましたがこれはすぐに消えてしまいましたが、珍しい風景でした。
朝から降り続いた雨が、夕刻には上がって太陽が出ました。
地元のTV局が天気予報で虹が出ているというのでバルコニーに出てみると、七色が見事に太い虹がでていて慌ててデジカメで撮影しました。6:45頃のことです。
上の方は雲にさえぎられて半円にはなっていませんが・・・ そして右の家のうえにも薄い虹が立っていましたがこれはすぐに消えてしまいましたが、珍しい風景でした。
私は「椿井文書」については知識を持ちえない。又、著者の馬部隆弘氏が熊本大学のご出身というのも気にかかった。
氏は2018年『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館,)を上梓されている。
偽書と呼ばれるものはたくさん存在する。一級資料とて、その内容をうのみにすると大変なことになる。
大いに気を付けなければならないが「日本の最大級の偽文書」とはいかなるものか、コロナ暇にはもってこいの内容だと思い、購入の手続きをしようと思っている。
(寛永五年正月)廿日
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| 廿日
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| (大脱) (成定) (元五)
忠利乃美景嘉ト小 |一、乃美主水・小篠次夫と人ノ出入あつかい被申候衆、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門、此三人
篠次大夫トノ人ノ | (成政) 清左衛門の養父
出入ヲ聞カシム | にて御座候由ニ付、落着之様子を、坂崎清左衛門を以、道雲ニたつね可申 御意ニ御座候間、則
| 清左衛門にたつね申候処ニ、道雲被申候ハ、あつかい調申候後、主水かたへ、あつかいノ衆次
| 大夫を同道仕候て、礼ニ参候筈ニ御座候処ニ、いろ/\と候て延引仕不参候、此儀ニ付而主水・
無言 | 次大夫無言にて御座候つれ共、あつかいノ後、久敷間御座候而、主水方へ次大夫礼とハ不申参
| 候へ共、主水ハ見廻と相心得、人出入済たる故ニ、次大夫礼ノ心得にて被参たるとハ、主水不存
| 様子ノ由、道雲被申候由、清左衛門被申也、
大坂ヨリ銀子 |一、大坂ゟ御銀子取下申ニ付、南喜右衛門今日上せ申候、京・大坂へ之状共数多上せ申候ニ、蒲田主
| 水所ゟ寺嶋主水方へノ状ニ、銀包こめ在之を、苻まゝ言上上せ申候、
| 物うけ取上り申候、 (黒印)
請取 | 南喜右衛門〇
| (久盛)
中川久盛使者 |一、中川内膳殿内中川加賀所ゟ使者参候、松井宇右衛門所へ、彼使者落着申候、則宿を吉田少右衛門
宿奉行 | ニ申渡、宿奉行ニ益永太兵衛を遣候ヘハ、松井宇右衛門所ニ置可申 御意ニ御座候間、町宿ヘハ
| 遣不申由、于右衛門被申之由、右之太兵衛被申候也、
| (中津郡)
刀箱ヲ牛皮ニテ包 |一、御刀箱ノ上を、牛ノ皮にて御つゝませ可被成候間、皮籠作りを高瀬へよひニ可遣ノ由、 御意ニ
マシム 皮籠作リ | 付而、則下毛郡奉行衆へ早々可被差出通、書状二而申遣候事、
| (敦行)
三斎へ生熟酢白魚 |一、中津へ御使者ニ、続平右衛門を被遣候、御進物ニ生なれノすし箱壱つ、しろ魚のわけ物壱つ、か
ノ曲物堅海苔進上 | たのりのかこ壱つ被進之候也、
| (後の阿部弥一右衛門、せがれは権兵衛、後刎首となる) (浅山)(田中氏次)
山村某初見ス |一、山村弥一右衛門尉せかれ、御次而次第 御目見え仕せ可申旨被 仰出候、奉り修理・兵庫也、
乃美小篠人ノ出入 |一、乃美主水・小篠次大夫人ノ出入之儀を、坂崎道雲あつかい人ノ内にて御座候ニ付而、其節之様子
ニツキ扱人坂崎道 | を道雲ニたつね可申旨 御意ニ付、道雲を御城へよひ候て、相たつね申候処ニ、道雲申様之
雲ノ口上 | 事、
| (志水元五)
乃美景嘉ニ家来 | 一、主水所へ道雲・伯耆・小谷又右衛門、此三人参候て、彼内ノものゝ儀、次大夫所ニ其まゝ置候
ヲ小篠次大夫家 | 様ニと主水へ申候へ共、合点不仕候つれ共、色々ニ理を申候て、ついニは主水を申ふせ、合
来トスルヲ認メ | 点ノ上ニ而、あつかい之衆申様ニ、近比満足仕候、此上ハ、則次大夫を同道仕候て、礼ニ可参
シム | 候と申候ヘハ、其時主水申様ニ、 礼ニも不及候、各三人御あつかいにて候からハ、次大夫不被
| 参候とても不苦候由、主水申候、其時あつかいの衆申様ニ、其分ニも可仕候、とかく次大夫可
次大夫礼ニ不参 | 候様ニと、次大夫ニ申候、然ニ中/\礼ニ参間敷候、此中主水不聞儀を申候間、礼ニ参間敷と
| 申候、其時あつかい候衆申様ニ、それハ不届儀ニ候、主水手前をいろ/\申かねへ候ニ、次大夫
| 申分一円不聞候通申候ヘハ、其時次大夫申様ニ、然は可参と申候つれ共、同道仕候て主水かた
小篠ニ礼ニ行ク | へ可参を、何かと打通、不参候、又あつかいノ衆同道不仕候共、いつれにて成共、主水ニ被相
ヲ命ズ | 候て一礼被申可然と、次大夫ニ申渡候、久敷ま御座候て、主水・次大夫は此儀ニ付、無言ニて
相互ニ無言 | 御座候つれ共、小倉ニ而も、主水かたへ次大夫参候、内ノもの出入相済申候礼と申候てハ不参
| 候、下心ニハ無言之上ニ参候ハ礼と次大夫存候て参候、又中津にても参たる由、次大夫申之
| 由、道雲被申候事、
| 次大夫礼之儀
挨拶ヲ三年待ツ | 一、主水申様ニ、彼出入之儀、〇三年相まち候へとも、埒明不申候間、言上可仕之由被申候間、尤
| ニ而ハ候へ共、先言上を被待候へ、礼ニ参候儀可相済候、江戸ニ次大夫有之事ニ候間、江戸へ
| 其内次大夫下り被申候ハヽ、同道可仕と、
| 申遣候て、次大夫状ヲ取候て成共可進之候、〇状ニ而主水へ申遣由、道雲被申候、右之段々
| を申上候ヘハ被 聞召候、道雲をハ戻し候へと、 御意にて御座候間、則 御意之段を申渡候
| て、道雲を御城ゟ戻し申候也、
| (衛政)
谷衛政へ返状 |一、谷大学殿へ之御返書出申候を、道家左近右衛門方へ可相渡由、申遣候ヘハ、左近右衛門ゟ谷助兵
| 衛殿へ被申遣ニ付、助兵衛殿ゟ、吉田伝左衛門と申仁被差上ニ付、 御書幷金壱歩判弐つ、飛脚
| ニ被遣候を、右伝左衛門ニ相渡候事、
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1、浦兵部允宗勝
2、乃美主水・景嘉
(大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
銀子廿枚 鑓ハ不合、首ニ討取、生捕壱人、此外内之者首三討取 (綿考輯録・巻十九)
三斎様御付中津ニ相詰候衆 千五百石 米田助右衛門是政(二代)婿 (於豊前小倉御侍帳)
(おざさ)
小篠兵庫頭 大江広元末流
亀之允
小篠次大夫 転切支丹 慶長拾九年頃
1、七左衛門 三斎様御附中津二相詰候衆 三百石 丹後「大江」 (於豊前小倉御侍帳)
《国宝級稀少現存唯一長文書状》《武田信玄 書状 足利義昭将軍筆頭側近真木嶋玄番頭殿 一色駿河守殿宛》
11,000,000円というべらぼうな値段が付いた上記古文書がヤフオクに出品してある。
内容が確認できないようにぼかしがかけられていてその内容は伺えない。
とても何方かが落札されるとは思わぬが、大変興味ある文書である。
さてこの真木嶋玄蕃頭は後に細川忠興の客分として豊後に入った。子孫は家臣となり明治に至っている。
私の先祖が細川家に仕えることになったのは、この真木嶋玄蕃頭(雲庵または云庵)と、清田石見お二人があってのことである。
故にこのような文書に出会うと、なんともうれしくなるのだが「国宝級」そして余りの高額に呆然とするのみである。
わが先祖は別段戦場での働きがあるわけでもなく、ご縁があってスカウトを受けて、元和九年(1623)閏八月、兄弟二人(初代庄左衛門と兄・長五郎)が豊前へ召し出された。
声をかけていただいたのが、お二人である。(清田石見一族のご子孫とは親しくお付き合いをさせていただいている)
わが先祖に特筆すべき業績はあまりないが、ただこの召し出しについての経緯は、大いに誇りにしたいと思っている。
下は我家の先祖附のの冒頭部分である。
三斎様豊前ゟ江戸御上下被遊候時分ハくた松ニ御船
繋被成候 右市左衛門居宅濱邊ニ有之候を於御船被遊
御覧御尋被成候ニ就而は磯部浄雲と申者之忰居
宅之由清田石見殿槇嶋雲庵方ゟ被達御耳候
處兼而被為 聞召及候由ニ而市左衛門宅へも両度被為
懸 御腰御膳等被召上候 御供之衆ニハ濱邊ニ假
屋を申付料理等差出申候由其節市左衛門親子三人共ニ
御前へ被召出御懇之御意共御座候 其後於豊前右
石見殿雲庵方両人ゟ申参り御意之由ニ而市左衛門子供
両人豊前へ御召寄御児小姓ニ被召出