■蟄居のお許しまで17年
以下の三人が享和元年11月、経済政策の失敗(?)を糾弾され免職、閉門・蟄居を仰付けられた。「熊本藩年表稿」には次の様な記載がある。 享和元年(1801)11月18日、中老兼大奉......
ちょうど一年前に上の記事を書いていたが、これはいわゆる「享和の政変」と呼ばれるものだが、その詳細についてはなかなか表に現れる資料を見いだせない。
明治天皇に仕えた永田永孚の母親は、蟄居させられた津川平左衛門女だとされるが、その永孚の著「還暦之記」には「国老遠坂関内、奉行入江某後素泉ト云ト共ニ三人故アリテ蟄居ヲ命セラル、其事秘シテ漏レスト雖トモ、公ノ郡夷則ヲ寵信シ華奢ノ風ニ移ルヲ極諫セシニ因テナリト云」とある。三人のうちの一人が大目付・平川平左衛門である。
この時期の細川家の当主(公)は宇土家から入った齊茲である。この政変の原因は、遠坂らが一方の当事者であるもと側方にあった郡夷則が華奢の政策に変換する事に諫言したことによると記している。
堀平太左衛門による宝暦の改革の流れは否定され、また借金地獄へと足を踏み入れる藩政に変換したのである。
また、家老三家が政治の実権を取り戻そうとする「あがき」でもあったように思える。
上記ブログでも記したが、残疑物語なる書物には「遠坂関内折角抜群に召仕はれ候へども、一向御委任は遊されず候故、関内も諸事任心底不申事のみ有之抔、下方にて申合申候、且又先年清左衛門書附の内三家衆の威を、平太左衛門奪候様致候段相見申候に付、其以後は自然と三家にも其の覚悟有之、関内身分に取候ては、別て差切、諸事取計悪儀有之共にては無御座候哉と考申候」とあり、堀平太左衛門の大奉行時代に苦い目に遭った、世襲家老三家との確執を窺うような記述がある。
先のブログで書いた「■肥後に於ける取り付け騒ぎ」はそういう状況下で起こった。
宝暦の改革を断行した堀平太左衛門につらなる、遠坂らの考え方は、堀をして政から遠ざけられてきた家老派・側方派によって退けられたが、その遠坂関内の緊縮財政が果たして失政であったのかどうかは大変疑わしく思える。
享和の政変と呼ばれるこの時期の史料が誠に少ないことは、記録を控える恣意的なものが感じられて仕方がない。
彼等三人の蟄居が解かれたのは、齊茲自身ではなく、息・齊護の時代になってからのことである。
齊茲自身も家老派・側方派の意には逆らえられなかったのであろうか。大変むなしく思える。