津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■謎の中の「享和の政変」

2020-05-21 13:11:50 | 歴史
 
■蟄居のお許しまで17年

以下の三人が享和元年11月、経済政策の失敗(?)を糾弾され免職、閉門・蟄居を仰付けられた。「熊本藩年表稿」には次の様な記載がある。   享和元年(1801)11月18日、中老兼大奉......
 

  ちょうど一年前に上の記事を書いていたが、これはいわゆる「享和の政変」と呼ばれるものだが、その詳細についてはなかなか表に現れる資料を見いだせない。
明治天皇に仕えた永田永孚の母親は、蟄居させられた津川平左衛門女だとされるが、その永孚の著「還暦之記」には「国老遠坂関内、奉行入江某後素泉ト云ト共ニ三人故アリテ蟄居ヲ命セラル、其事秘シテ漏レスト雖トモ、公ノ郡夷則ヲ寵信シ華奢ノ風ニ移ルヲ極諫セシニ因テナリト云」とある。三人のうちの一人が大目付・平川平左衛門である。
この時期の細川家の当主(公)は宇土家から入った齊茲である。この政変の原因は、遠坂らが一方の当事者であるもと側方にあった郡夷則が華奢の政策に変換する事に諫言したことによると記している。
堀平太左衛門による宝暦の改革の流れは否定され、また借金地獄へと足を踏み入れる藩政に変換したのである。
また、家老三家が政治の実権を取り戻そうとする「あがき」でもあったように思える。

上記ブログでも記したが、残疑物語なる書物には「遠坂関内折角抜群に召仕はれ候へども、一向御委任は遊されず候故、関内も諸事任心底不申事のみ有之抔、下方にて申合申候、且又先年清左衛門書附の内三家衆の威を、平太左衛門奪候様致候段相見申候に付、其以後は自然と三家にも其の覚悟有之、関内身分に取候ては、別て差切、諸事取計悪儀有之共にては無御座候哉と考申候」とあり、堀平太左衛門の大奉行時代に苦い目に遭った、世襲家老三家との確執を窺うような記述がある。

先のブログで書いた「■肥後に於ける取り付け騒ぎ」はそういう状況下で起こった。
宝暦の改革を断行した堀平太左衛門につらなる、遠坂らの考え方は、堀をして政から遠ざけられてきた家老派・側方派によって退けられたが、その遠坂関内の緊縮財政が果たして失政であったのかどうかは大変疑わしく思える。
享和の政変と呼ばれるこの時期の史料が誠に少ないことは、記録を控える恣意的なものが感じられて仕方がない。
彼等三人の蟄居が解かれたのは、齊茲自身ではなく、息・齊護の時代になってからのことである。
齊茲自身も家老派・側方派の意には逆らえられなかったのであろうか。大変むなしく思える。

 

 

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■文春砲炸裂

2020-05-21 07:29:44 | 些事奏論

 定年延長までさせた東京高検の黒川検事長に文春砲がさく裂したようだ。
検察庁法改正案の今国会での成立が見送られた直後の、黒川氏の賭けマージャン問題発覚というタイミングからすると、案外総理周辺にはこの不祥事の情報がもたらされていたのかもしれない。
改正案が成立したのちに、この問題が起こったらどうなったのだろうかと、弥次馬根性が騒ぐ。

成立見送りによって検事総長就任は見送られる可能性もあった黒川氏にとっては、進むにも引くも進退窮まった中ですっかりブラックイメージが定着してしまった。
政治用語に「身体検査」という言葉がある。文春にこれらの情報は何処からもたらされてのか、検察内部からであろうことは容易に想像できる。
それにしても、各社の新聞記者が数回賭けマージャンの会を催していたというから、「無冠の帝王」等と奉られている新聞各社の責任も重大だ。
産経は判らないでもないが、朝日は頭が痛い事であろう。

選挙違反事件の渦中の河井夫妻もいよいよ逮捕許諾請求も現実味を帯びてきて逮捕の日も近まりつつある。
法務大臣経験者、検事総長を目前にした元・法務事務次官がこの有様では、政権の親心はすっかり踏みにじられてしまった。
黒川氏を検事総長にしようとした政権の思惑は何処にあったのだろうか。
信念も哲学もなくただ烏合の衆のごとく、法案成立にもろ手を挙げた与党議員たちにも只々落胆するばかりである。
真実は明かされることなかろうし、また闇は深まるばかりである。政権の終末が見えてきたような気がする。
もみ手をしながら猟官運動をしていた議員たちも、次の親分を見誤らないようにと動き出すことであろう。
長期政権の中で大臣を目の前にした「お友達」には、つらい時代が来るかもしれない。

新聞各社も「文春砲」なみの取材力を発揮しなければ、ますます国民の新聞離れは加速する。

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■細川小倉藩(237)寛永五年・日帳(正月廿三日)

2020-05-21 06:34:03 | ご挨拶

                      (寛永五年正月)廿三日 

         |
         |    廿三日
         |
忠利鷹野に出ズ  |一、今朝も御鷹野に被成御座候事、
         |                 雲照院・杉原家次の娘)
木下延俊母へ病見 |一、瀬崎猪右衛門儀、木下右衛門様之御母儀京二て御煩被成ニ付、為御見廻、京迄被成御上せ候、右
舞ノ使者     |                              (直時)
塩筍塩鴨塩松茸  |  衛門様へ塩竹子・塩鴨・塩松茸二三桶被進候、又大坂ニ而、嶋田越前殿へ御国のり一箱かご壱つ
嶋田直時へ音信ニ |  被進候を、是も猪右衛門被持上候事、
国産海苔     |
         |                  (衛友)
谷衛友死去ニツキ |一、竹原清大夫ハ江戸へ被遣候、是ハ谷出羽殿御遠行ニ付、為御使者被遣候事、
弔問使者     |
         |                                (兼従)
江戸上方ヘノ書状 |一、奥之御納戸衆ゟ京へ之状三包、内ニ銀子壱包在之、湯浅五郎兵衛ゟ萩原殿へ参状壱通、表ノ御
萩原兼従へ書状  |  何度衆ゟ京への状一通、我々共ゟ京への状壱つ、大坂への状三通、
請取       |                    右、何も受取り申候、塩崎維右衛門(花押)
         |               (親英)             (可政)
         |一、竹原清大夫江戸へ被参候ニ、松野織ア・町三右衛門・加々山主馬所へ之状三通、
         |
         |一、松本彦進・豊岡甚丞ゟ右両人織ア・三右衛門へ之状一通、沢村大学殿・竹田了由ゟノ状壱通相
         |  渡候事、
         |異筆
         |「一、寺嶋主水へ之状一通、
竹原惟英請取   |                       右ノ分、慥ニ請取申候、
         |                              竹原清大夫(花押)」
         |
         |一、右清大夫ニ付候て御長柄衆弐人、江戸へ被遣候ニ、 御六様へ之 御書箱壱つ持せ遣申候、
光尚札守     |                         御札守壱包、
         |                                 神戸喜平次与
         |                          右ノ御書箱、慥ニ請取申候、左兵衛(花押)
         |                                 右同
         |                                    六 蔵(花押)
伊与音信宗珠院宛 |一、宗珠院殿へ、いよとのゟ参候しふかミ三つ、慥ニ請取、積上り申候、       (黒印)
         |                                    中村喜兵衛〇
         |          (豊後大分郡)
豊後横目へ使者  |一、坂崎勘右衛門、苻内御横目衆へ御使者ニ被遣候而、京罷帰候事、
東小倉追廻馬場囲 |一、東小倉追廻之馬場ニ、御かこい土手被 仰付候、為御奉行宇野五郎左衛門尉・弓削勘十郎両人申
ノ奉行      |  付候、様子ハ河田八右衛門尉ニ可被相尋由、申渡候事、
         |
小篠次大夫出府ニ |一、式ア少殿ゟ、山本源太夫を以被仰聞候ハ、小篠次大夫江戸へ被遣付、御借米之儀、各を以被申上
ツキ借米     |  度と被申候へ共、無御取次由、次大夫被申候、何とそ御次而を以申上候様ニと、被仰下候、此方
         |  ゟ御返事ニ申候ハ、次大夫御借米、鷹百石ニ付三十石宛ニ被借遣候様ニと申上候処ニ、江戸なミ
         |  をはつし被借遣儀不被為成旨、被 仰出候、然上ハ、重而申上儀不罷成由申候、併手前之様子承
保利與兵衛貸銀ハ |  及候間、今迄借シ可申との 御諚ハ無御座候へ共、保利與兵衛銀ノ内を御かり候て可然存候、左
否        |  候ハヽ、彦進・甚丞へも我々も可申候、其方ゟも御談合候様ニと申候ヘハ、與兵衛銀ハかり被申
         |  間敷由被申候、然上ハ、御分別次第ニ候と返事申候、此使ハ山田加左衛門ニ而御座候間、加左衛
         |  門ニも可被成尋由、御返事申候事、
         |一、式ア殿ゟ、又源太夫を以被仰聞候ハ、只今御返事一々承届候、各被申分無残所候、次大夫無分別
         |  被申候由、被仰聞候事、
         |          (正直)                      稲剪りの大刀・本田忠勝も所持した
薮正直質入ノ刀青 |一、米や理兵衛所ニ、藪市正ゟしちニ取置候青江ノ刀、又いな切と申刀、両腰竹や懸 御目申候処、
江銘幷いな切ノ刀 |  二腰を壱貫ほとニうり候ハヽ、加被 召上旨 御意通、竹や喜兵衛申候ニ付、吉田少右衛門をよ
忠利値二口壱貫ニ |  ひ、此段申渡候事、
求メントス    |
         |                    (沼田延之)
         |一、式ア殿ゟ、山本源太夫を以被仰聞候ハ、長岡勘解由殿ニ、式ア殿乗物船大坂へ御かし候、其舟下申
         |                                〃
         |     (米田是季)(小笠原長元)    殿    殿
上方諸方ヨリノ音 |  候ニ、監物殿・備前殿・勘解由・伯耆ゟ之言上之文箱壱つ、戸田左門様 細越中と御書付候御文
信        |                 (志水元五)
         |             上      (村上景則)                       (正直)
         |  箱壱つ、狩野是斎ゟ之言状壱つ、長岡河内方へ 殿様ゟ被遣 御書之由ニ而、河喜多五郎右衛門
         |           (可政)          (坂崎成政)  (親英)
         |  尉殿■と書付、加々山主馬と在之文箱壱包、坂清左へ松野織ア・町三右衛門ゟ之状壱包、織ア衆
         |           (道家立成)   (松井友好)
         |  ひの状壱つ、主馬ゟ左近右衛門・宇右衛門方への状弐つ、何も参候、それ/\へ持せ遣候事、
薮正直ノ刀商談成 |一、米や理兵衛刀二腰、壱貫目弐売申儀不罷成由、吉田少右衛門を以申ニ付、左候ハヽ、返しか被申
ラズ       |  由申候而、吉田少右衛門ニ渡し返し申候事、
         |                                      (辰珍)
長谷部文左鶴進上 |一、長谷部文左衛門尉、昨日七つ時分ニ、かさねニ靏弐つ、田川ニ而打申由ニ而、津川四郎右衛門尉
         |  殿へ当テ書状被差越候とて、四郎右衛門尉殿ゟ長谷部ものニ持せ御上候、此方ゟ申候ハ、御國中
         |                                   返し申由、
鶴打法度     |  堅御法度通申触候上、靏打、被上候とて、 御前へ上ヶ申儀不罷成候間、〇申候而、四郎右衛門
         |                            
         |  尉殿へ返し申候、さて四郎右衛門尉殿被立 御耳候処、八喜木工を以被成御尋候ハ、御国中鶴打 
十郡ノ郡奉行署判 |  申儀申触候弥と、被 仰出ニ付、則十郡之御郡奉行衆判形取置候ふれ状、八木木工ニ則見せ申候
ノ鶴打法度ノ触状 |  而、此段可被仰上候と申候事、我等共へも、長谷部ゟ書状被差越候、幷御郡奉行衆ゟも書状被越
         |  候事、
柏木仁右衛門身躰 |一、柏木仁右衛門ゟ、書状を以被申越候ハ、主身躰得 御意くれ候様ニと被申候、前かと申上候処、
ニツキ取成ヲ願ウ |  ともかくも 三斎様 御意次第ニと被 仰出候間、然上ハ■■ 三斎様御前之様子、奉人ゟ書状
三斎ノ意次第   |  を取、被差越候ハヽ、隋其得 御諚可申由、柏木弥兵衛弥次兵衛ニ口上ニ而申渡候、書状ノ返事
         |  ハ不申候事                 〃〃〃
         | 

 

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