先にも触れたように思うが、細川韶邦は夫人(一条氏)を通して明治天皇とは相聟の関係になる。
昭憲皇太后(一条美子)と韶邦夫人(峯)が姉妹である。(もっとも峯は一条家の養女ではあるが・・・)
韶邦は、幽齋の二位法印・贈正二位、忠興の従三位に次ぐ正四位に叙任されていることはあまり知られてはいないのではないか。
公武合体が彼の意とする処であったようだが、彼を藩主としてとどめるのには時代の流れは無常であり、明治の新政の時代を迎えた。
肥後国事史料によると、実学党の面々が韶邦(当時・護順)を藩主の座から降ろそうと新政府に働きかけている。
明治天皇と相聟という立場も影響しているのかもしれない。
韶邦が正四位に叙任されたのは、明治三年の隠居後の十二月だとされる。
御礼の為に上京すると、「華族東京居住の命」によりそのまま東京にとどまり今戸に新邸を築いた。
韶邦の名乗りは彼が隠居後のことであることもご存知の方は多くはあるまい。
そして明治五年六月五日、この新邸に明治天皇(19歳)と同妃・美子(23歳)が訪れたのである。
そのために正四位を得たのではないかと思えるほどのタイミングである。
天皇皇后の行幸は異例ともいうべきではないのか? いろいろ拝領物があったと記録されている。
付足し:
殿上人という言葉があるが、これは五位以上の人、清涼殿南庇に昇殿出来るのは四位以上の人ということになる。
細川宗家は代々四位下以上の位階をもつ。宇土支藩・新田藩、茂木細川家等は五位である。
五位の位があたえられた「五位鷺」の名が有るのは有名な話だが、吉宗の時代、天皇に像を御見せする為にこの像には四位が与えられたという。
極めつけは、天皇が病の床に就かれた時、看護婦たちは殿上の資格がないため、その仕事は男性医師によって行われたという話が残る。なかなか難儀な世界ではある。