津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■韶邦、一条家を通じての相聟

2020-05-30 09:49:24 | 歴史

 先にも触れたように思うが、細川韶邦は夫人(一条氏)を通して明治天皇とは相聟の関係になる。
昭憲皇太后(一条美子)と韶邦夫人(峯)が姉妹である。(もっとも峯は一条家の養女ではあるが・・・) 
韶邦は、幽齋の二位法印・贈正二位、忠興の従三位に次ぐ正四位に叙任されていることはあまり知られてはいないのではないか。
公武合体が彼の意とする処であったようだが、彼を藩主としてとどめるのには時代の流れは無常であり、明治の新政の時代を迎えた。
肥後国事史料によると、実学党の面々が韶邦(当時・護順)を藩主の座から降ろそうと新政府に働きかけている。
明治天皇と相聟という立場も影響しているのかもしれない。

韶邦が正四位に叙任されたのは、明治三年の隠居後の十二月だとされる。
御礼の為に上京すると、「華族東京居住の命」によりそのまま東京にとどまり今戸に新邸を築いた。
韶邦の名乗りは彼が隠居後のことであることもご存知の方は多くはあるまい。

そして明治五年六月五日、この新邸に明治天皇(19歳)と同妃・美子(23歳)が訪れたのである。
そのために正四位を得たのではないかと思えるほどのタイミングである。
天皇皇后の行幸は異例ともいうべきではないのか? いろいろ拝領物があったと記録されている。

付足し:
殿上人という言葉があるが、これは五位以上の人、清涼殿南庇に昇殿出来るのは四位以上の人ということになる。
細川宗家は代々四位下以上の位階をもつ。宇土支藩・新田藩、茂木細川家等は五位である。
五位の位があたえられた「五位鷺」の名が有るのは有名な話だが、吉宗の時代、天皇に像を御見せする為にこの像には四位が与えられたという。
極めつけは、天皇が病の床に就かれた時、看護婦たちは殿上の資格がないため、その仕事は男性医師によって行われたという話が残る。なかなか難儀な世界ではある。

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■最近参考にした三つの論考

2020-05-30 05:51:26 | 論考

 過去にすでにご紹介しているかもしれない。ある文言で検索してヒットした三つの論考、改めて読みなおして認識を新たにしている。

1、宇土細川家で編纂・制作された『細川家譜』

1、参勤交代の制度化についての一考察 ー寛永武家諸法度と細川氏ー

1、華族資本としての侯爵細川家の成立・展開 

 

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■細川小倉藩(246)寛永五年・日帳(二月七・八日)

2020-05-30 05:40:55 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)七・八日 

         |
         |    七日
         |
三斎ヨリノ飛脚ニ |一、三斎様ゟ御飛脚参候、 御書則上申候、御飛脚ニハ、太鼓の御矢倉にて、めしをたへさせ申候
太鼓ノ櫓ニテ食セ |  事、
シム       |
         |一、下毛御郡奉行衆ゟノ御飛脚、 御返書則相渡、差返申候事、
         |一、右 三斎様ゟ之御飛脚、 御返書則相渡、差返申候事、
薩摩へ枇榔子網ノ |一、薩摩へつくつなかいニ御舟被遣儀、得 御諚候処ニ、御家老衆ゟ、御国之商人之由被仰遣候へ、
買入   小倉領 |  商売人御国へかい参候ヘハ、御国のためニも能候、御国のもの無紛とのしるしニ、御状被遣様
ノ証人ナル証明  |              (有吉英貴)
         |  ニと被 仰出ニ付而、則頼母殿へ、右之段申渡候事、
         |一、長舟十右衛門へ被成 御書候を、次飛脚にて持せ可遣旨、被 仰出ニ付而、則そへ状を調、次飛
         |  脚ニ持せ遣候事、
         

         |
         |    八日
         |
         |  (久留島通春)
久留島通春へ返礼 |一、来嶋越後殿へ為御返礼、御樽五つ・御小袖参つ・馬代銀弐枚被遣候、御使者ニハ、熊谷忠右衛門を       |
ニ樽小袖馬代銀ヲ |        (豊後玖珠郡)                 下
遣ス       |  知行所ゟ直ニくすへ被遣候、忠右衛門所迄ハ、真木喜左衛門与松岡角太夫、右之御音信物持せ被参
         |                        〃
         |  候、但、明日被参候事、
忠利土筆採ノ遊山 |一、殿様、つくづくし被成御取せ旨ニて、被成り御出候事、
         |                     (不破)
         |一、右之御使忠右衛門、煩其外さし相候ハヽ、ふわ角丞可被参由、申遣候事、
中間走ル     |一、坂井忠三郎申候ハ、與九郎と申御中間今晩走申候、又八右衛門と申御中間、此中中川内膳殿御内
中川加賀へ馬ヲ牽 |  衆へ被遣御馬引参候、于今不罷成帰候処ニ、かの女房も居不申候、定而與九郎ぬすミ候て、つれ
キシ中間ノ女房ヲ |  走申候哉と、存候由申候事、 〃
盗ムカ      |
         |                     ( 地 謡 )
市野某地謡ノ催促 |一、市野次兵衛被申候ハ、来十五日之御能ニ、ぢうたいニ可罷出通、御触状ニ付而罷出申候、しかし
ニ断リ      |  なから、私儀ハ、今度江戸にて一両度地謡ニ罷出候へ共、其後御理申、罷出不申候、又今程は江
         |  戸御算用事ニかゝり候て居申候、其上万事不自由ニ御座候ニ付、一度罷出候而、又不罷出候ヘハ
         |  いかゝニ御座候間、各御心得にて不罷出様ニ頼申由被申候、とかく重而御談合可申由申候事、
         |

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