津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(37)

2020-05-27 14:07:32 | 史料

                 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■高野松山の小石川の家

2020-05-27 09:12:13 | 徒然

 熊本出身の大庭照子(昭和13年生まれ)という歌手がいる。この大庭さんは美空ひばりの大フアンとみえる。
先年AIで美空ひばりの「それから」という曲が製作されるその過程を紹介するNHKの番組の中に、未完の曲を視聴する何人かの選ばれたフアンとしての大庭さんの姿を見つけた。大庭さんらフアンの鋭い適切な意見が反映されて、あの曲や映像が出来て衆目を唸らせた。
世間ではシャンソン・童謡歌手と紹介するが、コンサートではひばりの歌を御披露される機会が多かったようだ。

 井上智重氏の著「異風者伝」を読むと、大庭さんは人間国宝第一号の蒔絵作家・高野松山の姪に当たられるとある。
祖父が細川家の家扶を勤めていた時代、松山も細川家に盛んに出入りをしていた。
私の両親が結婚した時、氏から祝に硯箱を頂戴しているが、長男が幼いころ踏み割ってしまった。
大きな伊勢海老を盛り上がった赤漆で描いている。
専門家に頼み修復を試みたが不可能だと言われ、今でも壊れたままの形で手元に残している。

 井上氏の同著によると、口の悪い松山は「ケチ殿さんが建てた」という家に住んでいたというが、私は母の話から小石川の侯爵邸の屋敷内の家だと思ってきた。
ところがここには「小石川植物園の裏」とある。ここに音楽学校を受験するために大庭照子が一時滞在したらしい。
細川護貞さまの著「想いでの人々」では、父・護立さまが松山の「不行跡をとがめ勘当」されたとある。
細川家から色々な援助を受けた松山であったが、酒のなせる処であったらしい。
まさに「異風者」の名にふさわしい人物で、私の中ではなんとも松山と大庭さんとはつながらないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(243)寛永五年・日帳(二月朔日・二日)

2020-05-27 06:35:21 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)朔日・二日 

         |
         |    朔日
         |
         |    (長浜、規矩郡)長浜ラーメン発祥の地
忠利遊漁     |一、今日長はまへ、あミ御引せニ被成 御座候事、
         |            朱貝
三斎へあけ貝進上 |一、三斎様へ為御音信、あけかい弐桶被進之候、御使者ニハ谷小八郎被参候事、 御書箱壱つ、中津

         |  御奉行衆へ、飯田才兵衛・坂崎清左衛門ゟ之そへ状壱通相渡候事、
         |               (衛冬)
谷衛友ヨリ使者  |一、谷助兵衛殿ゟ被仰聞候ハ、谷右兵衛所ゟ使者差越申候、使者之名ハ沢瀬加兵衛と申候、御次手を
         |  以、立 御耳候様ニと、被仰越候間、 御帰城次第可立 御耳通、御返事申候事、
         |  (曽根村、規矩郡)
打チシ丹頂鶴ヲ郡 |一、そねの源兵衛、たんちやう之靏壱つ打候て差上候、小崎與次兵衛・平井五郎兵衛持被上候事、
奉行持参ス    |
八幡松ノ坊へ初穂 |一、八幡松ノ坊ニ、御初穂銀弐枚被進之候、但、当年之御初穂銀也、
銀二枚      |
         |

         |
         |    二日
         |
         |一、上田太郎右衛門尉、知行所へ可参旨、御暇被下候ま、罷越申候、頓而罷帰由被申候事、
中川久盛へ鶴ヲ贈 |一、中川内膳様へ、靏一つ被進候、幷御内中川加賀守殿へ、御馬一疋被遣候、御使者ニハ今橋三右衛
ル        |  門被遣候事、
谷衛冬ヨリ紫革  |一、谷宇兵衛殿ゟ御使者参候、御音信ニハ紫かわ五枚持参候事、
         |  (近江滋賀郡)
菅沼定芳へ鷹ヲ贈 |一、膳所へ御鷹すへ被遣御鷹師、礒辺三右衛門也、大坂ゟぜゞ迄ノ餌もちニハ、大坂川舟ノ加子を遣
ル        |  可被申由、寺嶋方へ可申遣事、
         |(異筆)
脇差ノ請取    |「一、朝山斎内少介わきさし壱つ、我等請取、慥ニ相渡申候、      酒井七郎右衛門(花押)
         |   (忠広)
         |一、加藤肥後様内並河志摩守所ゟ、又飛脚被差上候事、
         |                   (国遠)
宇佐旧記下着   |一、宇佐旧記ノ下着被仕由ニて、小紙三帖、道倫ニ渡申候事、
         |一、御大工之作兵衛ニも、弐帖渡候事、
         |                        (銭)
並河志摩守飛脚へ |一、並河志摩守所ゟ之飛脚ニ、壱歩一つ被下候、京鏡壱貫文可被遣之旨、 御意ニ候へ共、京鏡無之ニ
京銭ナク壱歩銀ヲ |  付而、壱歩を遣申候事、
給ス       |
         |  (長門豊浦郡)
高麗鷹ノ売価   |一、下関ゟ高麗鷹うりニ参候を、壱居被成御買候、代銀ハ壱貫八百六十目にて候事、
         |     寛永三年後水尾天皇伏見城行幸
行幸時ニ鉄炮足軽 |一、去々年行幸之時、御鉄炮衆見苦被 思召ニ付、もめんノ■白キはだ着三十被 仰付、御きせ被成
ノ行装見苦シトテ |  候、是を持下置候へ共、于今払不申候、いつれへ払可申候哉と、井門亀右衛門与小玉角介・国友
白木綿ノ肌着ヲ着 |  半右衛門与伊加利久左衛門両人申ニ付、安場二左衛門方へ渡候へと、申渡候、何かと今迄払候儀
セシム ソノ肌着 |             (坂崎成政)(永良長兵衛)
ヲ武具奉行へ渡ス |  相延候哉と、申候ヘハ、坂清左・永長兵なとへ度々申候ヘハ、御いそかわしく候とて、埒明不申
         |  候、其上京二て、谷忠兵衛殿ゟうけ取申二付、忠兵衛殿へも数度申候へ共、埒明不申、今迄延引
         |  仕由、申候事、
         |                                  (村上景則)
長岡河内家来ノ召 |一、古や七左衛門被申候ハ、御ふち人入江田小左衛門子八助と申もの、今迄長岡河内守所二めし遣置候4
抱ヲ乞ウ     |  へ共、暇を遣申候、八介申候ハ 殿様歩ノ御小姓衆ノ明所も御座候ハヽ、御奉公ニ罷出度奉存候
景則方ニ構ナシ  |  間、各様へ申てくれ候へと申ニ付、如此候、河内かまいハ少も無之由被申候、頭衆と可有御談合
         |  由、返事申候事、
         |

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         高麗鷹のお値段

             ・ 銀一貫は、1,000匁=10,000分=100,000厘=1,000,000毛
             ・ 当時(江戸時代前期)における金一両は銀貨六〇匁に相当するものとする。
             ・ 金価格については特定しがたいが、ここでは一両を80,000円と仮定する。
             ・ これらのことから銀一貫は、80,000円×(1,000匁÷60匁)≒1,330,000円

        ・ 高麗鷹の値段「壱貫八百六十目」は、
           1,330,000円×1,86=2,474,000円   250万円ほどですが、さてこれが高いのか安いのかよく判りませんね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする