津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「特別史跡熊本城跡総括報告書 調査研究編」

2020-05-24 18:28:43 | 熊本

 今般熊本市の熊本城研究センターは「特別史跡熊本城跡総括報告書 調査研究編」を発刊したことを発表した。
残念ながら民間に於いては刊行物は入手は不可能である。所蔵する図書館等での閲覧又は以下の如くPDF資料が提供されたので、こちらをご覧いただきたい。
尚、「特別史跡熊本城跡総括報告書 歴史資料編」は先年同様にPDF資料が提供されているので、同研究所サイトからご覧いただきたい。

   特別史跡熊本城跡総括報告書 調査研究編

正誤表

第1分冊

PDF 表紙・図版・目次 新しいウィンドウで(PDF:1.39メガバイト)

PDF 第1章 調査の概要 新しいウィンドウで(PDF:536.6キロバイト)

 

第2分冊

PDF 第4章 発掘調査の概要 第3節 各地区の概要と発掘成果(4/4) 新しいウィンドウで(PDF:11.95メガバイト)

PDF 第5章 総括(1/2) 新しいウィンドウで(PDF:22.7メガバイト)

PDF 第5章 総括(2/2) 新しいウィンドウで(PDF:16.33メガバイト)

PDF 第6章 熊本城の調査研究と課題 新しいウィンドウで(PDF:1.23メガバイト)

PDF 第7章 付編(1/2) 新しいウィンドウで(PDF:23.47メガバイト)

PDF 第7章 付編(2/2) 新しいウィンドウで(PDF:16.06メガバイト)

PDF 奥付 新しいウィンドウで(PDF:505.2キロバイト)

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■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 29(原文35分)

2020-05-24 09:36:16 | 史料

            有吉・志水
35         間頼母・伯耆なと舟合待候へと申たる由候 是
          ハ 上使之御衆からの被仰様ニて■御座有間                            ■候と思えるが?不要文字か?
          敷候頼母伯耆なとか 立允様を留可申ため
          私ニ申し候と被 思召候間能々可申上之旨奉得
          其意候被成 御意候ヘハ左様成儀も可有御
          座候哉 立允様河内村ニ被成 御座候時ハ頼母
          大矢野へ渡志はやきを仕居候 其後陳ニ
          上使衆御座候て志はやき彼是も被仰付之
                上津浦
          由候 此段ハかうつらニて熊本勢申候ハあけ
                         勢子?
          のき候大矢野之あき家野山をやきせこ
          たち山をからせ候へと 上使衆被仰■ニての          ■罷か?
                 (文章もしくは文字が一部脱落しているのではないか、意味不明・・???)
                          上津浦
          にも火をつけさせ日をくらし候故かうつらへ
          於そなわりしと万民口々ニ申候を承候 又
               三角
          御国之内ミすミにて 立允様ゟ 上使衆へ
          私御使ニ被遣候時 甚三郎殿被仰候ハ 立允様御
                                    23歳
          若御座候間御さきかけをも可被成候左様之
          儀ニて無之候 上様ゟ之被 仰出ニハ味方之
          人数を壱人もうたせす一揆をふろふし

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この一連の「志方半兵衛言上之覚」に於いては、随所に「志はやき」「芝やき」という言葉が現れている。
当方ではいろいろ資料を読むなど調べてきたが、意味を測りかねて上記のような表示をしてきた。
その中で、このことにお気づきになられた方から、お尋ねをいただいたが現況確答が出来ない状況である。
今回(原文35)においても「志はやき」という表記があるが、これは有吉頼母が大矢野でこれを指示していることが伺え、次項では上使衆がこれを「彼是も被仰付」とある事からすると、幕府軍からも命令されて実施していることが判る。
「芝、志は」とは「柴」であり、「おばあさんは山へ柴刈に行きました」の柴で、山野に自生する小さな雑木である。
これを焼いている状況が見て取れる。

その後に続く記述には、上使衆が大矢野島の明(空)家を焼き、山を焼き、苅らせと命令していることが判る。
これはいわゆる戦場に於ける「射界の清掃」とは違う性格であり、山や田畠を焼き、切支丹たちの隠れ住む場所や食料の供給をなくそうとするものであろう。
「芝やき」もまた、同様の意味を持つ言葉であろうと推測されるが、断定に及ばないでいる。
つい先ごろ亡くなられた、立教大学名誉教授の藤木久志氏の著「雑兵たちの戦場」をみると、戦場の村の苅り田や放火などは戦術的に日常茶飯であったことが伺える。


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■細川小倉藩(240)寛永五年・日帳(正月廿七日)

2020-05-24 06:40:34 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正月)廿七日 

         |
         |    廿七日
         |
河喜多八助眼病  |一、河喜多八助ゟ、古田七左衛門を以被申越候ハ、眼気殊外悪敷候間、中津近所ニ、主眼ニ合薬御座
         |  候間、罷越、羪生仕度候通、被申越ニ付、加然通申候事、
         |  (村上景則)
村上景則相続ノ礼 |一、長岡河内、夜前中津ゟ為御礼被参候、 三斎様ゟ之 御書も参候ニ付而、古屋七左衛門持被上候
ニ中津ヨリ来ル  |  へとも、はや御門立申ニ付而、我々所へ被持参候を、則我々両人持上り、 御前へ差上申候、河 
         |  内ハ今朝御礼被申上、被成御振舞候事、
         |  (松井興長)
         |一、式ア少殿、此中御煩にて候つる処ニ、被成御快気、今日被成御登城候事、
村上景則主知行惣 |一、長岡河内方ゟ、平左衛門を以上被申越候ハ、はやき申事にて候へ共、大坂御普請諸役之者なと仕立候
成ノ算用ヲ求ム  |    村上景広
         |  間、八郎左衛門知行去物成之儀、差引被仰付候て可被下候、又前廉八郎左衛門御供ニ罷上候時ニ
戻米       |  戻米なとも有之様ニ承及申候、左様之段をも差引被仕候様ニ、金子・中神ニ被仰渡可被下候事、
景則ノ算用    |一、河内儀ハ、惣別小倉御米をかり申間敷通、前廉 三斎様被 仰付候、今又八郎左衛門跡 仰
         |  付、壱万石ニなり申候とても、得 御諚候ハねハ御米かり申儀罷成申間敷と存候間、左様ニ御座候
景広馬乗ノ借米  |  ハヽ、八郎左衛門馬乗共ニかし被下御借米之分も返弁可仕候、しかれとも、今ほと米の手廻何と
忠利ノ袖判ヲ請ケ |  も罷成間敷候間、 御袖判をも申請、銀子にて上納可仕と存候、いかゝ可有御座候哉と被仰聞ニ付
銀子ニテ上納スル |  而、此方ゟ申候ハ、米と銀とのさわけの様子ハ、惣積り仕ものと談合仕候ハねハ、とかくの御返
ハ如何      |  事難申候由申渡候事、何時御返弁候とても、請取可申由、申渡候事、
         |          〃
         |一、右八郎左衛門知行分、去物成ともニ、長岡河内方へ急度被仕、渡候へと、加藤新兵衛・栗野伝介
         |  ニ申渡候事、
諸方ヨリノ書状  |一、京都長講堂へ被遣候御使者、歩之御小姓衆吉村次左衛門被罷下候ニ、
         |  一、章林院ゟノ御返書ノ御文箱一つ、
         |  一、加々山主馬へ当り申、あら川と有之御文箱壱つ、
         |    菅(定芳)  
         |  一、■沼織ア様ゟノ御返書壱つ、
         |  被持下候事、
         |   (直時)
         |一、嶋田越前様ゟ之御返書之御文箱壱つ、御船頭中靏ニ左衛門持下候事、
嶋田直時ヨリ鴨ノ |一、嶋田越前様ゟ、鴨のたゝき・のこのわた入申箱二つ、内壱つハ 三斎様へ被進之由、御船頭ニ左
叩海鼠腸     |  衛門持下候、
京ヨリノ鼓革調緒 |一、京都ゟつゝミのかわ・しらへ入申候しふかミ包壱つ、吉村次左衛門被持下候、南畝小兵衛ニ渡被
ヲ奥納戸奉行へ渡 |  申候事、
ス        |
木綿足袋     |一、吉村次左衛門ニ、長講堂ゟもめんたひ二束給候由、被申候事、
村上景広家屋敷之 |一、村上八郎左衛門家屋敷之帳、幷道具も有之帳被差上候事、
帳幷道具ノ帳   |                                      (皆川)(林)
村上景広遺物ノ刀 |一、村上八郎左衛門遺物ノ刀一腰箱ニ入、茶碗壱つ箱ニ入、書置文箱ニ入、右野分、治ア・隠岐両人
幷茶碗   遺書 |  へ相渡申候事、
         |                                    (沼)
菅沼定芳へ野雁ノ |一、正月六日ニ、歩之御小姓吉村次左衛門、御使者ニ京へ被成御上せ候時、菅紹織ア様へ被進候野雁ノ
羽失念シテ渡サズ |  羽ノ入たる箱、次左衛門ニ不相渡、此座敷たなノ下ニ入候て在之候、此儀、此中ハ知レ不申候処
         |  ニ、今日自左衛門罷下、被申候ハ、織ア様被仰候ハ、野雁ノ羽を被下候由、 御書ニ相見え候へ
         |  共、羽ハ不参候、如何候て不参候哉、使取おとし申候哉と、被仰ニ付、京都ニて相尋候へ共、
         |                              
         |  無之ニ相究、罷下申由ニ付、たつね申候ヘハ、右ノ仕合ニ候ニ付、三宅勘三郎を以、此段申上候
         |                              〃
         |  処ニ、 御機嫌も損不申由、勘三郎被申候事、但、 御前ニハ右之段々ハ不申上、失念仕、渡不
         |    
         |  申由〇申上候事、 

 

注記:
今回の記事に於いては、村上景広の死去に伴う息・景則の家督のことが取り上げられている。次回の記事にも続きの記事があるが、特に表示した。
景広は能島・村上水軍の出で村上隆重の嫡男で備中笠岡城主であったが、大阪の陣に於いて随身していた毛利氏が敗北するとここを離れ、細川忠興の招きにより10,000石で召し仕えた。寛永4年10月1日死去した。これを受けて忠興は息・景則に父・景広に遺領10,000石を相続させた。
以降景則は、始終三斎の家老職として中津から八代に至り、その死去まで付き従った。三齋死去後の景則は本藩との軋轢があり、離国のやむなきに至った。

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