津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■植木の西瓜

2020-05-16 16:19:18 | 徒然

 熊本の植木町周辺は西瓜の全国に知られる有数の生産地である。
今年も良い西瓜が出来上がったと聞くが、このコロナ禍の中で消費が落ち込み売れ行きが悪いらしい。

嘉永六年八月、薩摩藩主・斉彬の養女となった「篤姫」は、再び相まみえることがない故郷薩摩を発って将軍家に嫁ぐべく江戸へ向かっている。
宮尾登美子による長編小説「天璋院篤姫」によると、篤姫は海路出発したとされるが、実は薩摩・豊後街道を通っている。
半田隆夫氏著「薩摩から江戸へ・篤姫の辿った道」に詳しい。

参勤などでは御供は男ばかりであるが、篤姫の道中には多くの女中を伴ったため、道筋の人たちは珍しげであったといわれる。
熊本では河尻の御茶屋に宿泊し、翌日八月廿九日は熊本城下を抜けて、御茶屋・御馬下の角小屋で休憩をしている。
ここで篤姫は「西瓜」のもてなしを受けている。
御茶屋の記録に次のようにある。

          一、薩劦様御息女様
            御茶菓幷柹西瓜御献上申上候付
            金子弐百疋被為拝領有頂戴仕候候

 藩主の参勤交代では三百疋だというが、行列も小規模であり二百疋となったと思われる。
「疋」も又、「銀一枚」同様賞賜目的などに用いられた貨幣単位である。
岩波日本史事典によると、「銭10文を1疋と称したが、金1両が銭4貫文と公定されたことから、小判・一分判(金)をそれぞれ金400疋・金100疋と称して授受した。」とある。
つまり、弐百疋とは二分であることが判る。半田氏は「弐百疋(四万円)」とされているが、一両を80,000円と仮定されたものである。
        商品画像1
一分金二枚を包んで「弐百疋」の包金として渡されたのであろうか。

             

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■細川小倉藩(232)寛永五年・日帳(正月十六~十七日)

2020-05-16 10:18:55 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正月)十六~十七日 

         |
         |    十六日
         |
         |一、右ノ鶴ニ塩をさせ可申旨、被 仰出旨、坂崎清左衛門方ゟ被申越ニ付、則足立與兵衛をよひ、此      
         |  段申渡候事、
         |                         (軽ヵ)
彦山忠有後室ノ疱 |一、北村作雲、彦山ゟ被罷帰候、後室之ほうさう一段輙御座候ニ付、二夜御留り候て、罷帰由被申
瘡ハ軽シ     |  候、道迄賄等被仰付、御馳走被成由被申候事、
         |   (近元)津川(斯波)義近嫡孫、津川四郎右衛門甥        (国遠)
津川近元ノ疱瘡療 |一、津川数馬殿ほうさう御煩被成ニ付、療治之儀、国道倫ニ被 仰付置ニ付、生すゝめ壱つ入候間、
治ニ生雀ヲ餌差ニ |  御ゑさし衆へ可申付由、被申ニ付、則申付候、
求ム       |
中国へ鶴買    |一、中国へ、靏かいニ被遣御鉄炮、杉山藤兵衛与藤田三右衛門・井門亀右衛門与松尾清大夫、くろ靏
         |                                         (足立)
黒鶴価百九十五匁 |  壱つかい候て、罷帰申候、但、一昨日ノ朝打申鳥ノ由、百九十五匁ニかい申由申候、則與兵衛ニ
         |  渡、塩させ申候事、
         | (豊後速見郡)木下延俊領             (弥左衛門与脱)
日出へ山犬ヲ牽行 |一、日出へ、御小人喜介与左右衛門・與吉両人ニ、山犬引せ被遣候処ニ、與吉ハ彼地の人ニ有付候
キシ小人一人ハ馴 |  迄、被成御留候由ニ而、左右衛門斗罷帰候、御返事ハ椎田ニて上ヶ申由、申候事、
付ク迄留メラル  |
小天守ニテ紫染  |一、小天守ニ而、むらさきをかけ申候間、御横目壱人加被下由、皆川治アゟ被申越候ニ付、少天守ノ
         |  儀ニ候間、人を加遣由、如何候由被申ヘハ、不苦候間、人を遣由、被申ニ付、本庄次左衛門遣候
         |  事、
         |

         |
         |    十七日
         |
継木六十本下ル  |一、坂崎半兵衛のせのほり申候御船頭吉田市左衛門下着候、継木とも六十本つミ下り申候事、
歳暮ノ呉服江戸へ |一、江戸へ、歳暮之呉服持せ被越候御奉行橋本市左衛門罷下候、御物とも何も無事ニ江戸へ着申候
届ク       |  由、被申候事、
         |  (細川光尚)10歳
光尚ヨリノ書状  |一、御六様ゟ、小篠次大夫へ之 御書壱通、御鉄炮衆嶋田與兵衛ニ持せ遣、次太夫方へ相渡候事、
         |
江戸ヨリノ書状  |    橋本惣右衛門被持下候状数之事
         |一、御六様ゟ、 殿様へ上り申 御書壱通、
         |一、御六様ゟ、 三斎様へ上り申 御書一通、
         |    (忠澄)
         |一、加々爪民ア様ゟ 殿様へ之御状一通、
         |  (蜂須賀忠英)
         |一、松平阿波守様ゟ 殿様へ之御状一通、
         |    (宗茂)
         |一、立花飛騨様ゟ  殿様へ之御状一通、
         |    (長重)
         |一、浅野采女様ゟ  殿様へ之御状一通、
         |    (延俊)       (浚治)
         |一、木下右衛門様へ同左兵衛殿ゟ言上一通、
         |    (直時)    
         |一、嶋田越前殿ゟ  殿様へ之御状一通、
         |    (忠重)
         |一、松平大膳殿ゟ  殿様へ之御状一通、
         | (長岡忠隆)
         |一、休無様ゟ    殿様へ之御状一通、
         |     (忠真)
         |一、小笠原右近太夫殿ゟ 殿様へ之御状一通、
         |    (秀政)
         |一、津田與庵様ゟ  同御状一通、
         |一、沅西堂ゟ 殿様へ上ル状一通、
         |
         |    (正俊)
         |一、久貝因幡様ゟノ御返書壱通、
         |    (勝之)
         |一、佐久間大膳様ゟノ御返書壱通、
         |一、戸田左門様ゟノ御状壱通、
         |      (松井興長)
         |  右参通、式ア殿ゟ持せ被下候、則中津へ上ヶ申候事、但し、坂崎半兵衛ゟ式ア殿迄被差下由ニ而、
         |  御上候事、
         |                                  (元明)
医師唐人少峯来ル |一、長崎ゟ少峯参候、宿ハ道悦所へ居申候、賄之義可然様ニ可被仕通、住江甚兵衛方へ申渡候事、
継木ハ九年母蜜柑 |一、大坂ゟ継木六十本下内 十五本ハ久年母、廿七本ハミつかん、十八本ハきんかん
金柑 継木ノ代銀 |      右代五十九匁三分由、送切手ハ大坂ゟ下候ハ、上林甚介ニ渡ス、
         |

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■ひどい雷雨でした・・

2020-05-16 06:52:04 | 徒然

 実は昨日、堀内伝右衛門が役務で縣(延岡)へ出かけたことを傳右衛門の著「旦夕覚書」から再読していた。
熊本から延岡まではざっと120㌔ほどある。それを一昼夜で行って来いと命令されている。
延岡は私の奥方の故郷だが、今では道路事情が良くなり2時間半ほどで行けるようになったが、いかにも遠い。

 熊本と宮崎の県境を水源とする五ヶ瀬川の上流・日の影まで歩き、その後は舟で下るという計画である。
その日はあいにくの雨で雷もひどかったらしい。高下駄で傘を差し稲妻の明かりを頼りに歩いたと書かれている。
途中から傳馬を借りたが、銀しか持ち合わせず借料を払えず関所まで引き返して其手当などをしている。
そんなこんなで当然のことながら予定の時間内では用を済ますことが出来なかったらしい。
予定以上の時間がかかると、奉行所で吟味が行われる。傳右衛門は詳細を逐一報告すると、奉行所も納得したらしく、その後熊本~延岡間の旅程は伝右衛門の報告の如くに行われるようになった。

 熊本は昨晩から強い雷雨に見舞われている。そんな中ベッドの中で、昨日は傳左衛門が雷雨の中を旅したという記事を読んだな~等と考えたりしていたから、睡眠時間は半分ほどになってしまい、今朝は起床も遅れ、眠い事半端ない。
今も時折雷の音がし、強い雨が降っていて、警報3が発せられている。
朝の散歩は出来そうにないから、少々小降りになるのを待って様子を見ることにしよう。

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