■福岡県史・近世篇「細川小倉藩」に挑む
福岡県史・近世篇「細川小倉藩」という刊本が三巻ある。内容は奉行所の「日帳」だが、「日帳」とか「万(萬)日帳」、「御用覚書帳」とか名称はいろいろである。第一巻は「寛永元年から寛永五......
現在お届けしている「細川小倉藩 寛永□□年日帳(□□月□□日)」は今日で241回になった。
gooブログは毎朝、「1年前の記事」を教えてくれるが、上が一年前の記事であり、実質スタートは5月27日の■元和七年・御印帳(七月朔日~十日)である。
この時期はまだ通し№を付していないが、№を付けたのは8月22日の■元和拾年 萬覚書(1)であり、それ以前に53回ご紹介している。1年間で都合294回(241回+53回)ご紹介したことになる。
悪友に言わせると「ご苦労なこったい」ということになるが、タイピングしていると否応なしに記事を精読するから、この一年でかなりの情報が頭の中に入ったように思う。但し、87爺の脳細胞の破壊は相当のスピードで進んでおり、収入より支出が多く赤字が累積している感じである。
お読みになった方から、先祖に関する記事があったとわざわざご連絡いただいたりすると、爺様はうれしくなって、腱鞘炎や肩の凝りをわすれて頑張るのである。
最近は一日に1.5~2頁分をタイピングしているが、ほぼ2時間を要する。コロナ暇から解放されると、これはどうなる事か判らないが・・・
ご支援に感謝申し上げます。
(寛永五年正月)廿八日
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| 廿八日
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| 鴨ノ
嶋田直時ヨリ三斎 |一、三斎様へ、嶋田越前様ゟ被進之候このわた・〇たゝきの入たる箱壱つ、神戸喜平次与市左衛門・
ヘノ音信 | 小谷忠二郎与與左衛門両人ニ持せ、幷 殿様ゟ之 御書箱壱つ相渡、中津へ遣申候事、
村上景広武具書 |一、村上八郎左衛門家・武具をかきませ候帳一冊、昨日河内被上候を、懸 御目候処、家ハ可請取
雑之帳 家ハ収公 | 候、武具ハ河内ニ被遣旨、被 仰出候、則我等共ゟ、此段河内方へ可申遣旨 御意ニ付、書状相
武具ハ景則へ遣ス | 調、古や七左衛門ゟ可被届由申渡、状渡申候事、
参考:■村上景広と景則
愛宕山ヨリ百味ノ |一、愛宕宝蔵院ゟ、御百味之御札箱壱つ幷御状、坂崎清左衛門披露可有由ニて、昨日歩之御小姓吉村
札 | (道家立成)
| 次左衛門被持下候、呉服箱ノ内ニ入テ下候を、坂本二兵衛・加来二郎兵衛両人ニて取出、左近右
| 衛門を以上申候事、
| (屋脱)
西ノ茶屋柿ノ台木 |一、夕ア道倫被申候ハ、西ノ御ちやノ前ノ畠ニ、柿ノ台木をうへ候へと、前廉上林甚介ニ被 仰付候
ノ植付 | へ共、右ノ畠ハ水つき申候間、清水辺ニて、甚介見立次第ニうへ置候へと、可申渡由被申ニ付、
| 其段甚助ニ申渡し候事、
小篠次太夫出府ニ |一、小篠次太夫妻子を江戸へ引越可申旨、被 仰出候へとも、手前用意何共不罷成候ニ付、引越候儀
妻子ヲ引越ス事不 | も成申間敷通、山田加左衛門を以被申候ニ付、弥年を入被相尋候へと、申渡候処ニ、右被申候
如意二ツキ用意ナ | ニ、今以不相替候間、御次而次第立 御耳可申由、加左衛門被申候事、
ラズ |
| (與原、京都郡)
忠利帰途休息セル |一、伊与原の庄屋九郎右衛門を、加藤新兵衛被召連登城仕、被申候ハ、こんど殿様中津ゟ 御帰城之
庄屋御礼ニ登城ス | 刻、かの庄や所へ御こしを被成御懸、殊外御懇にて御銀壱枚致拝領候付、為御礼罷出申候、進物
蛤ヲ進上ス | ニハはまくり一鉢持参仕候事、
| (久留島通春)2代豊後森藩主
久留島通春ヨリ使 |一、来嶋右衛門市殿ゟ、御使者二神喜内被参候、御音信ニハ紙五拾束入之折持参之由、古屋七左衛
者進物ハ紙五十束 | 門被申候、
中川久盛使者 |一、中川内膳殿ゟ御使者、八木七太夫と申仁被参候、
使者ヲ振舞ウ |一、右ノ御使者両人とも二、今晩被成御振舞候事、
家臣ノ下人ヲ釈放 |一、菊野伊織内之つま蔵・坂崎一角内よしの介・鈴木勘四郎内彦兵衛、被成御赦免、主々へ渡申候、
ス 忠利自筆ノ | 則被成御赦免との 御自筆之 御書出、此方ニ取置、 御印之袋ニ入置候也、
赦免上ヲ御印ノ袋 |
ニ納ム |
| ( 鬢 鏡 ) (毛抜) (袱紗)
入牢人所持品没収 |一、数右衛門ふところニ、銀子三きれ・ひんかゝミ壱つ・けぬき壱つ、ふくさ物ニ包有を、今日御
| 糺明之時、見出申由ニ而、番ニ付居候御鉄炮衆伊藤金左衛門与中川二郎右衛門持来候を、御掃除
符ヲセシム | 坊主玄斎・杉山藤兵衛与ノ斎藤羽右衛門ニ請取せ、符をさせ候て置候、
使者ニ小袖ヲ給ス |一、久留嶋右衛門市様・中川内膳様御使者ニ、御小袖弐つ宛被遣候事、
| (津川近元) (朝山) (吉田カ)
新籠入牢人数書立 |一、今日籠ニ御入被也候人数ハ、数馬殿内鹿ノ介・斎内少介・縫殿内角ノ介・百介内久七・佐伝次内
| 数右衛門・半十郎内くず兵衛・主水内角内、此分新籠へ入申候事
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