津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(217)寛永四年・日帳(五月廿日~廿一日)

2020-05-02 19:23:19 | 細川小倉藩

                      (寛永四年五月)廿日~廿一日 

         |
         |    廿日  加来二郎兵衛
         |
去免違ノ書物   |一、鳥井文三郎・香山長二郎・戸波儀太夫、三人去免違ノ書物悪敷ニ付、宇佐ノ御郡奉行三人よひ遣
宇佐郡奉行呼出シ |
調直シ      |  候処ニ、上村甚五左衛門ハ煩候故、于今出津不成ニ付、無兵衛・九大夫両人迄罷出候由、被申候
         |  ニ付、右ノ書物悪敷候間、如此被調可然由、申渡す候事、
         |
矢野利斎遺書幷遺 |一、矢野利斎書置一通、幷為遺物小脇差壱腰、林與兵衛を以被差上候を、脇差は則與兵衛・治ア丞手
物ヲ上グ     |  前ニ被請取置候へと、申渡候、書置ハ此方ニ留置、万書物之段ニ入置候也、
万書物ノ段    |
乃美景嘉知行ノ百 |一、乃美主水百性糺明之御奉行山田加左衛門、荒木権右衛門相奉行ニ被申渡由候、又御横目ニ北村次
姓糺明ノ奉行   |  右衛門を呼可申付申候、右ハ式ア少殿御壱人ニ相尋申候事、
         |      〃
時太鼓打ノ子筆屋 |一、御町奉行衆ゟ、時だいこ打申慶甫子■■■■筆屋を仕候而、東小倉ニ居申候、彼者向合ニ四兵衛
太兵衛東小倉ニア |                                   (を)
リ        |  と申まわや居申候処、彼四兵衛銀子うせ申ニ付、方々頼置候而、こくいおせうかうニ尋候処ニ、
向家ノ革屋銀子ヲ |                                  (豊後日田郡)
紛失ス      |  中津ニ而、慶甫子太兵衛両替仕候ニ付、彼四兵衛相尋候処ニ、中津ヲ走り日田へ参、それゟ筑後     
極印ヲ証拠ニ尋ヌ |    (久留米)                 (洲崎、博多津)
太兵衛中津ニテ両 |  へ、くるめへ参、又それゟ筑前ノ内すさきと申所ニ居申候由候、筑後之太兵衛宿主申候ハ、太兵
替ノ後走ル    |           (を)            申通             (遠藤)  
         |  衛物語仕候ハ、親おもよひ越可申候由〇物語四兵衛中津ノ少右衛門ニ申由候ニ付、御町奉行ゟ、
         |                    〃〃
親慶甫ノ走ルヲ用 |  彼慶甫走り可申候哉と存、心得之ためニ申入由候ニ付、式ア少殿へ如何可有御座哉と、相尋申候
心ス       |  処ニ、筑前へ呼可越と申儀、風聞ニ而候へ共、いよ/\治ア・與兵衛両人ニ申渡候而慶甫手前か
誓紙       |  ため候而、走り不申様ニ可仕由候、若請人も無之候ハヽ、誓紙をさせ可被申由ニ被仰聞候間、右之
         |  通を、治ア丞・與兵衛両人ニ申渡候事
         |一、主水百性糾明奉行山田加左衛門被仰付候へ共、煩差出候而、不罷成由被申越候、
請薮カ上リ薮カニ |一、規矩郡内丸ヶ口之竹藪、安井太右衛門請被申候、可然薮之由申ニ付、左候ハヽ、上り薮ニ可成
決定ノタメノ見分 |  か、又其儘請させ可然かを加被見届由、河田八右衛門・林弥五右衛門両人ニ申渡候事、
         |                                      御侍
投網ノ札     |一、平井五郎兵衛・小崎與次兵衛登城候而被申候ハ、唐あミ打札を不取ニ、あミを打被申衆御座候、
侍自身ノ網打ニハ |                           〃
札ナシトノ取沙汰 |  自身あミ打ニ被出候ニハ、札無ニととりさた御座候由候、其分ニ候哉と尋被申候、我等共ニハさ
ノ実否      |  やう儀不被 仰付候由、申渡候事、
         |

         |
         |    廿一日  奥村少兵衛
         |
(笋ヵ)      |                          ( 傷  寒 )
筝取ノ奉行傷寒ヲ |一、竹子ノ為奉行、田川へ被遣候仁、此地へ罷帰候とて、しゃうかんを煩、三/\の躰にてふせ
病ム       |  り居申由、猪膝太郎左衛門ゟ、新兵衛・伝介へ申越由、被申候事、
         |

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■川尻のことは・・

2020-05-02 10:54:39 | 熊本

川尻の町は藩政時代には熊本の水運の拠点であった。
奉行所やお茶屋が置かれ、収蔵量20万俵ともいわれる米の倉庫が置かれた。その一部が貴重な遺構として残されている。
加勢川を挟んでの対岸、かっての富合町には多くの船頭や加子達が住んだ「御船手」などの地名が残る。

また、かって緑川は九州一の暴れ川であったらしく、大慈寺を創建された寒巌義尹は長さ百尋(180m余)にも及ぶ大橋(大渡橋)を架けられた。
百尋という巨大な橋を考えると、かっては加勢川・緑川は合流していたのではなかろうか。

そんな川尻の町については、現在「くまもと工芸会館」のサイト内に「川尻文化の会」が次のような多くの資料をUPしておられる。
荒金錬一先生や西輝喜先生の博学と川尻愛にあふれた史料を拝見することができる。まさに「川尻町史」を見る思いがする。

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■松井興長書状

2020-05-02 07:56:19 | オークション

       長岡(松井)興長 書状 掛軸 安土桃山時代の武将 細川氏の家老 熊本藩八代城主  古文書消息花押状 戦国武将 長岡佐渡守 

              

           大変失礼な申しようだが、コロナ暇のこの時期このような品が出てくると、是で一日過ごせるなと思ってしまう。
      冒頭の「殿様其地被成御越・・」とあるが、殿様が忠利なのか光尚かも判らないし、ぱっと見では、宛先の方の特定さえできない。
      花押が書かれていないナと思っていたら、「病申故用印判申候」とある。しかし「印判」も見えないところから見ると案文か。

      興長が病ということになると晩年のことかもしれない。そうすると殿様とは綱利とも考えられる。
      まずは拡大してプリントアウトして、わかる処から一文字ずつつぶしていく事になる。
      こんなことを書きながら、是は二三日かかっても難しいかなと思われてきた。応札はご遠慮申上げる。みなさま頑張ってください。

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