昨日今日にかけて各種メディアは、大阪市の大宮神社から檜造りの豊臣秀吉像が見つかったことを報じた。
没後420余年となるがいつ頃の作品か、しかし状態も良く顔の表情なども見事である。
この神社は豊臣家により大坂城の鬼門を護る神社とされたが、これは徳川時代においても同様であったとされる。
そこに密かにこのような木造が収蔵されていたのである。神社が徳川家を慮って隠し置いたものであろうが、よくぞ今日まで残されたものだ。
豊臣秀吉没後の豊国神社に対する徳川家康の扱いは容赦ないものであった。常軌を逸したものがあった。
豊国神社の創建は慶長四年だとされるが、吉田神道家が大きくかかわっている。「兼見卿記」で知られる吉田兼見により秀吉は神となり祀られた。そしてその弟である梵舜は神宮寺の社僧となって豊国神社の建立から破却に至る時代を生きている。
又兼見の子・兼治(室は細川幽齋女・伊也)は宮司を勤めたが、その三男兼従が梵舜と共に苦労を共にした。
後に豊国神社の別当となった梵舜は豊臣・徳川を問わず多くの武将の知る所となった。
しかし、大阪の陣後の家康の豊臣家に関する扱いは異常なものとなり、豊国神社は二次にわたり徹底的に破却された。
豊国神社の参道は妙法院により塞がれ、神宮寺も又没収された。
梵舜はひそかに豊国神社のご神体を、自邸神龍院に持ち帰り「鎮守大明神」として守り続けたという。
豊国神社が再建されるきっかけとなったのは、明治二年明治天皇による再興の沙汰があってのことである。
お言葉には「大坂に於いて」とあった。それがために大阪の豊国神社(ほうこくじんじゃ)の建立のために選定された地こそが、中之島にあった細川家大坂屋敷の跡である。その後二度遷宮して現在の地に収まった。
またかって家康によって破却された秀吉の埋葬地・京都の豊国廟も豊国神社(とよくにじんじゃ)と共にまた整備がなされた。
長い間、徳川家により祭祠さえも禁止されたきた秀吉が、死去から300年を経てそれぞれの地で大歓声を持って迎えられたのである。
参考:津田三郎著「秀吉・英雄伝説の軌跡」
しして今回発見されたこの木像も、不運な歳月を経ながらついに日の目を見た。
秀吉フアンにはたまらない朗報であろう。