熊本藩政史の中で、史料的になかなか表に現れない事件が多々ある。
仮に表れていても、是は藩庁側による記録であり100%真実であるのかは疑わしい。
熊本藩年表稿などもいろんな事柄が羅列されているが、ここにさえ登場しないものがある。
公式な記録は恣意的に伏せられたのかもしれないが、研究者たちはわずかな記録から事件を嗅ぎ出し、その他の状況記録を精査しながらその全貌を明らかにしようと努力する。
例えば、齊茲公時代の「取り付け騒ぎ」である。
考えてみれば齊茲の時代は、京都御所造営費用負担(20万両≒15~20億円)、島原眉山崩壊による大津波被害、白川をはじめとする諸川の氾濫、江戸大火に伴う龍口上屋敷の類焼など、物入りの事柄が頻発している。
大奉行遠坂関内は緊縮財政で乗り切ろうとしたが、藩主側近(お側衆)出身の郡夷則が積極財政を称え対立した。
遠坂らは17年に及ぶ蟄居を言い渡され、宝暦の改革当時藩政から退けられていた家老・御側衆などの勢力が、郡夷則をたてて積極財政に出た。
そのため藩札の発行が行われ、後には兌換(銀との交換)が止めれれるに及ぶと取り付け騒ぎに及ぶことになる。
この辺りを明らかにした鎌田浩氏はその著「熊本藩の法と政治」の中で、辻のような史料を紹介している。
根元、寛政四年種々御才覚之御仕法尽果、始て御銀所預四五万両御振出之処・・・、現銀計之不便利之中、至て最安キ
に付、通用甚宜、其機ニ乗し拾四五万両追々どろりと御振出由之処、忽ち人気変し、通用塞り、一統預を忌ミ嫌、諸方之動
揺諸事の混雑別て町方一統商買方差支、諸色之直段二筋に成り、現銭に歩さしを取、段々偽造之罪科も出来、言語道断騒
動し、御銀所現銭引換夥敷、日々未明より日歿迄御家中町在一統(数百人)押寄、ゑひとう々々押合へし合、中々中々御
銀所御役人計之手に及兼候に付、廻役大勢被指出、町方御横目等詰方にて種々様々仕法を立、棟千切木にて制すれは制す
るほと弥人気は相背き、段々込ミ合、(屏壁を押崩し候程之儀に有之)、怪我人も出来し、歪曲偽造之罪人も遂日増来り、
既に御國中一統之動揺、御政体にも差障り可及破勢に付・・・
原文「御勝手向しらへ」( )内は「宝暦以来勝手向御繰合之御模様大略調帳」より補足
この時代には珍しい「どろりと」とか「ゑひとう々々」とか、オノマトペが使われて臨場感が増した文章になっている。
この結果、勘定頭などの直接関係者はすべて処分され、積極財政推進を唱えた当事者や、これを容認した家老等上層部には責任を問われることはなかった。