津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御恵贈御礼「漱石とハーンが愛した熊本」

2020-05-28 14:37:07 | 書籍・読書

                   

 過日肥後金春流の中村様から電話をいただいた折、ちょうど中村様を尋ねておられたのが井上智重先生、電話をかわられしばらくお話をした。
「いろいろ手紙で書きますから」と仰られて電話を切られたが、昨日お手紙と共にご恵贈いただいたのが新刊の「漱石とハーンが愛した熊本」である。
まだ直接は御目にかかっていないので、お手紙で拝受の御礼を申し上げたが厚く御礼申し上げる。
熊本日々新聞社に在籍されていたころから、文化関係の紙面では出色の活躍をしておられた。
退社後は熊本近代文学館の館長を勤められた。御著も次々と出版されそれぞれ手元に於いて愛読している。
どうやら、当方サイトが御目に留まったようだが、御目にかかったときどのような評価がいただけるのか些か心が騒ぐ。
図書館へ出かけると必ずといってよいほどお見掛けしていた。あの勉強ぶりがいろいろな著書に反映されている。
とても真似ができるものではないが、大きな目標ではある。

どうぞ皆様にもお読みいただければとご推薦申し上げる。

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■細川小倉藩(244)寛永五年・日帳(二月四日)

2020-05-28 07:16:47 | ご挨拶

                      (寛永五年正二月)四日 

         | 〇三日ノ分記事ナシ、
         |
         |    四日
         |
忠利叱リシ馬標持 |一、上野角左衛門・貫角右衛門、両人をよひ、先度御しかりなされ候御馬印持ノ儀、請人等ノ吟味被
ヲ赦ス      |  仕、御ふちかた、又御借米等をも渡り申様ニ可有御吟味候、左候て、今ほと与頭無之候間、御鷹
鷹野ノ供ヲセシム |  ノへ御供をさせ可被申由、申渡候事、
         |                         (小篠)
坊主丹斎ト改名出 |一、與兵衛坊主儀、丹斎と名を被成御替、明日江戸へ、次太夫ニ被付遣候事、
府セシム     |
吹気屋      |一、大坂之吹気屋新左衛門、御礼ニ罷下由ニて、登城仕候事、
大坂ヨリ鼓打ヲ雇 |一、大坂ゟ罷下候鼓打、今日御礼申候事、但、小倉屋仁兵衛所ゟ差下候也、
ウ        |
加藤忠広使者   |一、加藤肥後守様ゟ、御使者被参由、吉田少右衛門被申候、上下廿六人、乗馬壱疋、乗かけ壱疋参候
         |               (直景)覚兵衛の名で知られる。
         |  由、被申候也、御使者ノ名は飯田孫左衛門と申由也、
         |  (呼野、規矩郡)                               (春木)
鉄ノ試吹     |一、金山にて、鉄之ためしふきを仕候ヘハ、緑青一鉢見出し候由にて、金太夫持参被申、則 御前へ
緑青       |                                 (金辺峠)
         |  上ヶ被申候処、何ニ成共、金太夫望之所ニ、建立可仕由御意ニ付、則木部とうけニ建立可仕
         |  由、申候ヘハ、一段よさそうニ被 思召候間、建立させ可申由、 御意ニ候と、金太夫被申候
         |  事、
         |    (延俊)                 (豊後速見郡)          御
         |一、木下右衛門尉様ゟ、御飛脚参候、京都ゟ日出へ御状参ニ付、日出ゟ又飛脚にて、御状被持越候
         |  事、
谷衛友使者へ給与 |一、御小袖弐つ、谷右兵衛様ゟノ御使者弐被遣、 御返事も出申候、道家左近右衛門持せ被参候事、
         |                          (立成)
加藤忠広使者   |一、加藤肥後様ゟノ御使者弐、御小袖三つ被遣候事、平野九郎右衛門持せ被参候事、
         |           御小袖
朴西堂使者    |一、朴西堂ノ御使僧ニ、〇壱つ被遣候事、
京都買物奉行へ台 |一、京都御かい物奉行衆へ、御台所より遣被申御物請取切手壱枚、竹内吉兵衛与樋高八左衛門ニ持せ、
所用品ノ請取切手 |   (敦行)  
ヲ渡ス      |  続平右衛門ニ相渡候、此切手ハ江戸ゟ京へ被申上せ、江戸へ下り申たる御物請取切手にて候付、
         |  平右衛門方へ渡申候也、
         |一、日出ゟ参候御飛脚ニ、則 御返事出申候を、歩之御小姓藤井宇左衛門ニ持せ、御飛脚ニ渡させ申
         |  候事、
         |  (松井興長)
大坂ノ塩屋藤左衛 |一、式ア少輔殿ゟ、山本源太夫・井上弥二右衛門を以被仰聞候ハ、大坂塩屋藤左衛門女房、此中爰元
門女房貸銀ノ取立 |  へ罷下、御家中ニ有之借銭をこい申候へ共、調不申候、左候処ニ、松屋道二米を弐拾石かい候
ナラズ      |              
松屋道二ノ米ヲ買 |  て、出船仕候処ニ、銀子をなし不申、出船仕ニ付、道二方ゟ吉田少右衛門ニ、米■田與右衛門殿
ウモ代銀ヲ済サズ |  へ■申、舟を留申候処ニ、かの女房式ア殿へ参、弥二右衛門・源太夫をよひ出し申候ハ、道二米
小倉町奉行出船ヲ |  をかひ出船仕候処ニ、道二御町奉行衆へ申、舟を留申故、出船不罷成候、道二所へ米代銀渡可申
拘留ス      |  候へ共、御家中ニ御用ニ立置候銀子、少も調不申ニ付而、なし可申様無御座候、 殿様へ書仙石
忠利宛仙石忠政書 |  (忠政)
状ヲ持参ス    |  兵ア殿ゟ御状参候間、是を御上候而被下候様ニと申、持参仕候、式ア殿御留守之儀ニ候間、右両人
         |  ノ衆迄申候ヘハ、式ア殿へ申たる同前候由申ニ付、源太夫・弥二右衛門申候ハ、左様之御状請取
         |  置候儀もいかゝ、其上式アも留守にて候間、先やとへかへられ候へと申、もとし申候、かの女房申
忠利へ取次ガズバ |  候ハ、式ア殿御取次なく候ハヽ、御ひろまへ詰申、上可申由申候、又 中津へも御状参候間、上
広間ニ詰メム   |  申儀不成候ハヽ、中津ゟも上可申由申候間、先状をうけとり可申候、定而御家来借米之儀にて御
三斎ヘノ状モアリ |                               (作法)
家中借米ノ件ナラ |  座候ハんと存候間、又目安にても候ハんや、左候ハヽ、めやすのさはうニ可仕候、為御談合、右
ム  目安ノ作法 |  両人被差越由、今日此方ゟ申候ハ、先被成御請取、式ア少輔殿被成御覧可然由、御返事申候事、
         |  (定芳)
菅沼定芳へ野雁ノ |一、菅沼織ア様へ被参御鷹師礒部三右衛門ニ、 御書箱壱つ、幷野鷹ノ羽箱ニ入しふかミ包壱つ合渡
羽ヲ贈ル     |  候事、
         |一、右三右衛門ニ、京衆へ之状相渡候事、
唐人少峯へ銀子ヲ |一、唐人少峯ニ銀子拾枚被遣候事、
渡ス       |
     

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■惨禍からの脱却

2020-05-28 06:55:21 | 歴史

 熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授の最近の著「歴史にいまを読む」読んでいたら、つい先ごろお亡くなりになった明治大学の藤木久志名誉教授に15年間に及ぶ学恩を蒙られていたことが書かれている。
私は藤木教授の本を数冊読んで、中世期の百姓のしたたかな生きようを知った。数冊読ませる説得力がある。
稲葉教授の講演をお聞きしたことが有るが、今レジュメなどを読み返してみると、藤木教授の学説の一端が盛り込まれていることに気づかされる。
田や畑を戦いの場として蹂躙される百姓たちは自衛のために集団をつくり、時には他所へ出かけ物や人を略奪することも常であった。
秀吉の平和を希求する願いは、そんな「過酷な惨禍からの脱却」だとされる。信長・秀吉・家康らの覇権争いのつまるところに「平和」という旗印があるとすれば、不毛だと思ってきた長い戦の歴史も理解できそうである。

      好書好日「歴史学者・藤木久志さんを悼む 百姓の視点で新たな戦国史」

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