津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■走者

2020-05-29 17:54:54 | 書籍・読書

 当ブログの検索欄に「走者」「走」等と打ち込み「当ブログ内で」を選んで検索していただくと、相当数がヒットする。
走者とは「走り者」であり、主人の所からであったり、又百姓が土地を捨てて逃亡することを指す。
相当数ヒットするということは、頻繁に「逃亡」事件が発生していることが判る。
いろんなケースがあるが百姓の走り者は、年貢が収められなかったり、自然災害で収穫が無かったりということが多い。
一家をあげての逃散ということもある。しかしながらほとんどは国境を越えることはなく、人留の役人に捕まることになる。侍の奉公人や町人なども結構見受けられるが、犯罪が絡んでいることが多くこちらはそれに応じ処罰されている。

一方百姓は大切な米や小物成の生産者であるため、犯罪が絡んでいなければ、元の生活に戻されることが多い。
年貢が絡んでいると、子や兄弟が質奉公に出されたりして金を工面して、納める事にはなる。

又、時折他藩からの走り者が国境を越えてくることが有る。筑前黒田藩などからの場合百姓については戻すことはないようだが、それ以外は話し合いがもたれることなく国境から黒田領に追い払つている。
黒田家と細川家は慶長五年以来関係が非常に悪いためである。
処が、その他周辺の大名家とは好ましい関係が構築されているから、話し合いで解決しているようだ。
しかし、百姓は国境を越えれば逃げ勝ちというような感じがある。なかなかそういう具合にはいかないのだろうが、「走者」の記事が多いのには驚かされる。

「走者」の研究の第一人者は九州大学の宮崎克典氏、著書「大名権力と走り者の研究」に詳しいが、手ごろな所では中公新書に「逃げる百姓、追う大名 ‐江戸の農民獲得合戦‐」がある。
こ難しい話のようだが、読んでみると中々面白い。
内容のほとんどが、豊前時代の細川家領内での出来事であり、時代的には現在ご紹介している「細川小倉藩日帳」あたりが舞台となっているようだ。
肥後入国以前の細川藩の政の一端が伺える。後者は「お安く読める」新書版であり、ご一読をお勧めする。

                    

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■高脂血症?

2020-05-29 16:15:42 | 徒然

 毎日1時間ほど散歩をしているが、腹囲も体重も減らない。
今日は薬をもらうために定期の病院行、一ㇳ月前の検査の報告を受けた。
血圧は薬のお陰ですっかり平常値だが、血糖・脂質の関係数値が高く、食事を注意するようにとのご託宣である。
このコロナ禍の中、でついつい御菓子類をつまみ食いしたのが良くなかったのかもしれない。
もっとも、前回の検査は食事後2時間ほどたっていたから、少しは割引があるだろうと密かに考えているのだが・・・
帰宅してから、しょうじきに奥方に報告、昼食時にはヨーグルトにたっぷり乗せていた奥方手作りのジャムが食卓から撤退、「何が食べられるの」といささかお冠である。
朝はほとんどベジタリアン状態、昼は麺類かパン類だが量的には多いとは思わない。
夕食は普通の茶碗一杯のごはんと、その時々に煮魚・焼き魚、又は肉料理、また揚げ物といった感じでこれらが重複はしていない。
筑前煮みたいな煮物も大好きだが、みそ汁はほとんど採らない。もっとも奥方が瓜などを一夜漬けしたりするから、こちらは少々とりすぎかもしれない。
焼肉にしろ、揚げ物にしろ、大概盛り付けから一つ減らしている。
自分では脂質をとりすぎているとは思わないのだが、チョコレートやチーズを食間に取ったりすることもあり、これは控えずばなるまいと思っている。

色々考えると、昭和の頃の食卓のありようが一番最適なのだろうと思い至った。
しばらく頑張ってみましょう。

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■細川小倉藩(245)寛永五年・日帳(二月五・六日)

2020-05-29 06:33:19 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)五・六日 

         |
         |    五日
         |                                  (政直)
少峯長崎へ帰ル  |一、唐人少峯、長崎へ被成御戻、今日罷立候ニ、御長柄衆弐人付被遣候、末次平蔵かたへ被成 御書
末次政直へ書状  |                                                         (田川郡)
         |  御文箱御長柄衆ニ持せ遣候事、猪膝迄ハ御馬被 仰付候、猪膝まてハ御賄をも被 仰付候事、御
         |  長柄衆ハ小谷忠二郎与角兵衛・神戸喜平次与吉右衛門ニ、右ノ 御書箱相渡候事、
         |       (延俊)
         |一、京都へ、木下右衛門様へ為御飛脚、国友半右衛門与西村六兵衛ニ 御書箱相渡、今日出船之御舟
         |  ニのせ、上せ申候事、
         |             (  衍  )
江戸へ上ル品々ノ |一、小篠次太夫ニ、御鉄炮衆御鉄炮衆六人付、被成御上せ候ニ、相渡申御物覚
覚        |             〃〃〃〃
 光尚ノ能衣装  |  一、御六様御能衣装    壱包
 宇佐宮旧記   |  一、宇佐宮旧記ノ入たる箱 三つ
         |    老中(利勝)
 土井利勝へから |  一、土井大炊様へ被進之からの竹子箱 壱つ
 ノ竹子     |
         |    老中(正勝)春日局嫡男
 稲葉正勝へ台子 |  一、稲葉丹後様へたいす  壱つ
         |  右之分相渡遣申候、其外方々御音信物、永良長兵衛奉弐て、上せ被申候事、
         |一、江戸ゟ御飛脚弐人参候、壱人ハ小谷忠二郎与忠右衛門、壱人ハ御小人喜介与加介、只今下着申
江戸ヨリノ飛脚日 |  候、江戸を正月廿日ニ出、大坂ニ廿七日到着、同日ノ晩ニ大坂出船仕由申上候
数        |
忠利松井興長邸ニ |一、殿様今日ハ式ア殿へ被成 御成候事、
臨ム       |
         |                 (小篠次太夫)
江戸大坂ヘノ書状 |一、江戸へ之状・大阪へ之状共二ゆい、小次太へ、御使番大塚少左衛門二持せ遣候事、右状次太へ持
出船後二小早ニテ |  せ遣候ヘハ、早出船被仕二付、持せ小早二而追かけ、渡させ可被申由申候而、兵介・善右衛門
追カク      |  所へ持せ遣候事、
野瀬甚介落馬シテ |一、野瀬喜兵衛登城ニて被申候ハ、せかれ甚介儀、落馬仕、眼を殊外打申候ニ付、真嶋ニ見せ申候へ
眼ヲ強打ス    |  ハ、そこひニも可成様ニ被申候、何共気遣存候、此儀無紛との申わけのため、誓紙を上ヶ申候
眼科真嶋二診察セ |  由、被申候ニ付、何とていつわりを可被仰候、それニおよひ不申由申候而、返し申候事、
シム  紛レナキ |
証明ニ誓紙ヲ上グ |

         |
         |    六日
         |
奉書ノ状     |一、御小人ノ喜左衛門ニ、式ア殿・頼母殿ゟ乃美主水所へ被遣 奉書ノ御状持せ遣候事、
岩崎五郎介初見  |一、岩崎太郎兵衛せかれ、岩崎五郎介と申由被申候事、則御礼相済申候事、
村上景広遺物ノ刀 |一、皆川治ア・林隠岐両人被申候ハ、村上八郎左衛門遺物之刀、懸 御目申候処、竹屋ニとかせ可申
竹屋ニ研ガシム  |  旨被 仰出由被申候、又矢野利斎遺物之わきさしも被成 御覧候、是ハ中わきさしニかしらへ可
矢野利斎遺物ノ脇 |                           (幅)  
差    永勝院 |  申旨、被 仰出由被申候、宇佐永勝院遺物之絵も、三服共ニ被成 御覧由、被申候事、
遺物ノ絵     |
         |        (加々山可政)(松野親英)                          (町)
由布院蔵入ノ勘定 |一、伊丹播磨様ゟ、主馬・織ア所へ由布院御勘定ノ儀被仰遣之御状、此儀ニ付、三右衛門・織ア・主
         |                                       (飯田)(田中氏次)
         |  馬殿ゟ言上ノ状二通、式ア少輔所ゟニ而御披見被成候而、我等共ニ被成御渡候を、才兵衛ニ兵庫
         |  渡被申候事、
釜屋長兵衛事ノ外 |一、式ア少輔殿被仰候ハ、かまや長兵衛儀、今日 御前にて殊外上手にて御座候由、何も申候、しか
上手ノ評ナレドモ |  れ共、手前不罷成、何共かんにんも成かたき躰と申上候ハヽ、左様ニ候ハヽ、御扶持を可被成
手前ナラズ    |  旨、御意候つる、定而何とそ被 仰出儀可有之候、無左候ハヽ、御次手の折節、式ア少輔か様ニ
扶持方      |  申候通、立 御耳候様ニと被仰候事                
拍子ノ催     |一、今晩御拍子御座候事、
田中荒木岩崎初見 |一、田中忠介・荒木平四郎御礼相済申候事、岩崎五郎介も同前、
下毛郡奉行    |一、下毛郡御奉行衆ゟ次飛脚にて書状被差越候事、
         |  

 

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