ロシアのウクライナ侵攻においては、沢山の民間人がロシアに連れ去られたという報道がある。
一方ウクライナ軍により捕らえられた若いロシア兵は、侵攻した地で略奪を行い、一般人を殺し女性を集団でレイプしたとして、軍事裁判にかけられている。
戦争は人間を狂人にさせる。捕虜となり平常心に戻った時、取り返しのつかない自分の行為に呆然とし、希望を失い目はうつろである。
なぜこのような不毛な争いは絶えることなく続くのだろうか。第二次大戦による日本の敗戦が濃厚になってソ連が参戦し、日本の軍人その他58万弱の人々がシベリア抑留となり、一割の人々が極寒の地でなくなられた。
身近に感じて居られる方も多かろう。悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。
戦国時代以来国内の戦いも悲惨な状況がある。覇権争いの中で膨大な人の死があった。死なずとも辱めや奴隷になり売られゆく人々もあった。
豊臣秀吉の「伴天連追放令」はその一つの理由として、「九州御動座記」にも記されているポルトガル船による日本人奴隷の悲惨な有様を目の当たりにしたからだとされる。
秀吉の九州征伐は、「耳川の戦い」で島津勢に敗退した大友氏の要請を受けた形で行われた。
島津・大友の激突は多くの捕虜や略奪・人身売買がおこなわれ、ポルトガル船の船底に婦女子を含めた多くの人たちが海外へ連れ出された。
ポルトガル王は日本は人を売る野蛮な国だという。宣教師たちの報告にもとずくものだろうが、「売る人がいるから買うのだ」とはポルトガル人宣教師の言い訳だが、宗教人とは言い難い宣教師たちの闇が存在する。
大友氏の領国の人々で捕虜となった人たちは、島津領へ連れ去られ又は肥後に於いて人身売買されたとされる。
その数数千に及ぶという。(藤木久志著・雑兵たちの戦場)
宮崎克明著「逃げる百姓、追う大名」を読むと、百姓は宝である。ただし、「生かさず殺さず」の条件付きであるが・・・
肥後に留め置かれたこれらの人々は、「私の出自は豊後」として、生きて行ったのであろうか。
秀吉は攻め入った先での略奪や捕虜は強く戒めたとされる。家康もそうであったとされるが、しかし雑兵たちは死者の鎧をはぎ、着物迄はぎとり、鎗や刀・鉄炮など迄金目の物を奪い、中にはふんどし一つの丸裸の死体が累々としていたとされる。
雑兵たちにしてみれば自らの田地田畑の手入れも放棄させられて、死を懸けて戦場に臨むのだから、役得として暗黙の了解があったのかもしれない。
さて、ロシア兵たちはどうであろうか? ただプーチンの掌の上で踊らされ、狂人となったとすると、何をか言わんやである。