八代未来の森ミュージアムの林千寿氏の佳書「家老の忠義・大名細川家存続の秘訣」をよんでいる。
細川家の幾多の危機に当たっての松井康之の忠義は特筆すべきである。秀吉をして大名取立をも受け入れず、只々細川家に忠義を盡した。
その晩年に当たって、病床にある康之に対しての三斎のひたすらな見舞いの手紙の多さにも驚かされ、両者の信頼の程が見て取れる。
嫡子・與八郎は不幸にも朝鮮の役で負傷し、肥前名護屋に帰ったが18歳の若さで死去した。
忠興は二男・新太郎に「興」の字を与えて興長と名乗らしめた。そして娘・古保を娶合わす。
三卿家老の筆頭家として明治に至る長い間重きをなした。
三斎亡き後の八代城の処置は、細川家の若い当主・光尚にとっては重大かつ困難な問題であった。
三斎の遺臣、長岡河内等が本藩に相談なく三斎の遺言の実効を迫ったからである。
しかしながら三斎の愛息・立孝は三斎より先に死去し、幼い行孝が残された。
■細川立孝死去後三齋は、子・宮松の行末を案じて光尚に対して次のように頼み込んでいる。
尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
念可被下候、以上
為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
三齋
六月廿九日 宗立(ローマ字印)
肥後殿
御返事
八代の地は特に島津氏の抑えとして、一国二城が認められた重要の地である。
長岡河内らの専制の行動や、家臣団の不穏な気配が報じられた。
光尚は若い行孝ではとてもその重職は耐え難いと考えて、松井興長をして八代城主ならしめんと策した。
先の林千寿氏は著書なのかでは全く触れて居られないが、光尚はこの決断を事前に興長に相談していない。
■正保三年五月廿六日、興長を八代城ニ被差置へきに付而、公儀ニ御伺被成、御内書被成下候、
(綿考輯録・巻61ー出水叢書・第7巻p324)
貴殿八代へ召置候事、かくし申事ニ而ハ無之候得共、八代向之事未被
仰出候間、其方迄内証申遣候間、可得其意候、其方外聞無残所候、此
段式部少江可有物語候、八代向之儀、四五日中ニ被 仰出可有之候間、
其刻一度ニ急度可申遣候条、それ迄ハ不存分ニ可被仕候、謹言
肥後
五月廿六日 光尚
長岡佐渡守殿
私はかねがね、光尚の決断にたいして幕府の重要人物が介していたであろうことから、そこを御著で知り得ると楽しみにしていたが残念であった。
6月11日には、宮松(行孝)に対し3万石が与えられ宇土居住が言い渡された。8月4日細川帯刀(行孝)は家光公にお目見した。8月13日には松井興長が八代城に入った。
興長と古保との間に男子がないために、三斎の六男・岩千代(寄之)を養子とした。
興長の妹たけ(三淵右馬助重政室)女・古宇を室とした。細川家と一心同体の家老家が誕生した。