大変シンプルなデザインのこの紋を使って居られる御宅は結構多い。「的角紋」という。
「まとかく」で鉄炮の的を意味している。当たれば大いに結構という訳であろう。
鉄炮の練習場を「角場」と言ったりするが、赤尾口や京町台の鉄炮衆の屋敷が集中する処あたりに見受けられる。
火縄銃の時代では、どうやら鉄炮組の組頭の屋敷の庭先でも練習したらしい。
大変物騒な話だが、射程距離の問題もあったのだろう。
光尚時代の文書(寛永廿年二月廿八日)は、次のようにあって興味深い。
鉄炮打候ニ付触
尚々、十七日・廿四日ハからす打被申間敷候、已上
一筆申触候、如毎年之来月朔日ヨリ面々屋敷之内ニて鉄炮ニ而からす打可被申候、
勿論矢先を能かんがへ、けが人なと無之様ニ可被仕候、
一かくを打被申衆候ハゝ、其頭々ニ被致談合、与頭之屋敷之内ニ而も又与之衆之屋敷
内にても、矢先能所を被見立、射場をこしらへ、かくを打可被申事
一つりかくなと堅打被申間敷事
一御鉄炮衆方次第其頭之射場を被見立、御奉行所へ被相理、御奉行衆指図ニ射場をこ
しらへ、組ノ御鉄炮衆へ打せ可被申候、惣別矢さきをかんかへむさと打不申候様ニ
各御与中へ堅可被仰触候、八月朔日より打不申筈ニ候間、可被得其意候、爲年候間
御名之下ニ御判形候て可給候。恐々謹言
二月廿八日 長岡式部少
沢村宇右衛門
米田与七郎
鉄炮の練習期間は三月の朔日から、九月いっぱい、からすを打つこともOKだったようだが、十七日と廿四日は駄目だという。
どうやら何方かの忌日であろうか(大正解・・十七日は父・忠利公、廿四日は御母・千代姫の命日だった)
からすにとっては有難い御沙汰である。
かくは多分板などに固定したもので、吊るしたものは駄目らしい。どのくらいの大きさであったのか?
矢先、つまり鉄炮の方向を考えて打てと言っている。(当たり前の話だ・・・)
余談:横手町につい先ごろ迄お住まいだったS家は、弓道の御家柄、その屋敷の広い事・・・つまりは弓のお稽古を為されるためであった。
そうすると、鉄炮頭の御宅なども大いに広かったと思われる。
鉄炮頭の御宅の場所を、古地図で追ってみようかと思ったが・・・・やめた。