津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「かく」

2022-06-15 11:45:12 | 徒然

                

 大変シンプルなデザインのこの紋を使って居られる御宅は結構多い。「的角紋」という。
「まとかく」で鉄炮の的を意味している。当たれば大いに結構という訳であろう。
鉄炮の練習場を「角場」と言ったりするが、赤尾口や京町台の鉄炮衆の屋敷が集中する処あたりに見受けられる。

火縄銃の時代では、どうやら鉄炮組の組頭の屋敷の庭先でも練習したらしい。
大変物騒な話だが、射程距離の問題もあったのだろう。
光尚時代の文書(寛永廿年二月廿八日)は、次のようにあって興味深い。

    鉄炮打候ニ付触
     尚々、十七日・廿四日ハからす打被申間敷候、已上
    一筆申触候、如毎年之来月朔日ヨリ面々屋敷之内ニて鉄炮ニ而からす打可被申候、
    勿論矢先を能かんがへ、けが人なと無之様ニ可被仕候、
   一かくを打被申衆候ハゝ、其頭々ニ被致談合、与頭之屋敷之内ニ而も又与之衆之屋敷
    内にても、矢先能所を被見立、射場をこしらへ、かくを打可被申事
   一つりかくなと堅打被申間敷事
   一御鉄炮衆方次第其頭之射場を被見立、御奉行所へ被相理、御奉行衆指図ニ射場をこ
    しらへ、組ノ御鉄炮衆へ打せ可被申候、惣別矢さきをかんかへむさと打不申候様ニ
    各御与中へ堅可被仰触候、八月朔日より打不申筈ニ候間、可被得其意候、爲年候間
    御名之下ニ御判形候て可給候。恐々謹言
      二月廿八日                長岡式部少
                           沢村宇右衛門
                           米田与七郎

 鉄炮の練習期間は三月の朔日から、九月いっぱい、からすを打つこともOKだったようだが、十七日と廿四日は駄目だという。
どうやら何方かの忌日であろうか(大正解・・十七日は父・忠利公、廿四日は御母・千代姫の命日だった)
からすにとっては有難い御沙汰である。

かくは多分板などに固定したもので、吊るしたものは駄目らしい。どのくらいの大きさであったのか?
矢先、つまり鉄炮の方向を考えて打てと言っている。(当たり前の話だ・・・)

余談:横手町につい先ごろ迄お住まいだったS家は、弓道の御家柄、その屋敷の広い事・・・つまりは弓のお稽古を為されるためであった。
   そうすると、鉄炮頭の御宅なども大いに広かったと思われる。
   鉄炮頭の御宅の場所を、古地図で追ってみようかと思ったが・・・・やめた。

 

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■地図散歩の極み

2022-06-15 09:21:19 | 地図散歩

   

 街中を歩いていると、「なんで?」と思うようなところに出くわす。
古地図を見ると、なるほどと合点することになる。
この絵図の二つの、上は坪井橋の右手手前角、確か時計屋さんではなかったかと思うが小さな三角地、表は県道、その歌に小さな道がある。「何故?」
ご覧いただくとお分かりの様に、信愛女学院の前の県道沿いだが、新堀が開削されて上熊本方面へ大きな道路がつながると道路は坪井橋の上で30度ばかり方向を替えた。
これに伴い生じた残地であろうと思われる。
下は小さなガソリンスタンドがかってあった。脇と裏手に道路があり急阪である。
これは坪井川の流路変更で生じたのだろう。
大きく蛇行していた坪井川は、滑らかな曲線を描いて熊本城長塀下へ流れ下った。
現在の熊本大学付属幼稚園がその蛇行部分の川を埋め立てたところになる。

処でこの地図の上の□部分に「いせの惣四郎」という名前がある。これは伊勢野屋という旅館である。
伊勢野屋のすぐ右側までは、現在と同様の広い道路が見て取れるが、いわゆる火除け地「広町」である。
かって小倉藩が長州から攻められ、若殿様を擁して家臣団は肥後藩を目指して逃げまわった。
熊本初代藩主忠利の正室・千代姫の実方の災難である。しかし、当時の情勢を慮って、肥後藩の対応は芳しくない。
ようやくできたのが、幼い藩主をこの「伊勢屋」に御留めしたということである。
小倉城は逃げるにあたって自燃させた。事が納まると若君様始め帰国をされたがそれは元の小倉の地ではなく香春藩・豊津藩となった。明治維新の悲劇である。

そんなことを考えながら地図を眺めるのも一興である。
史談会会員の加藤氏・大矢野氏・木庭氏の屋敷が「向こう三軒両隣」であることにも驚かされた。

コメント (2)
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