■村藤猪左衛門は、(南東41-6)武藤猪造家、1・2・4・5・7代が猪左衛門を名乗り人物の特定が出来ない。
家紋不詳、ご教示願いたい。
■武藤小太郎は、(南東41-14)武藤喜平家の5代目か。家紋は「子持六角に唐花紋」
■宗像嘉一郎は、【殉死の家】(南東41-4)宗像加兵衛家の8代目加一郎・景知とも。初代清兵衛は切腹仰せ付けられる。
2代嘉兵衛・景定が忠利に殉死した。家紋は紹介されていないが「肥陽諸士鑑」に紹介あるが「頭合せ三つ州浜」か?
■宗像英太は、【殉死の家】(南東41-17)宗像三右衛門家の9代栄太(八助)。こちらは初代吉大夫・景好(嘉兵衛弟)
が忠利に殉死。家紋は同上
■村上善九郎は、村上水軍の一族(南東41-11)村上助之進家の7代目。家紋は「隅切り立角に上文字紋」
■村上次郎助は、同上(南東41-21)村上市右衛門家の7代目。家紋は「丸に上文字紋」
■村上七右衛門は、同上(南東41-19)村上鹿之助家の5代目八弥(七右衛門)。家紋は同上。
■村山甚助は、(南東41-1)村山傳左衛門 家の9代目。家紋は「細対い巴紋」
■村松長右衛門は、(南東41-3)村松市之助家の7代目市之進(長右衛門)。
家紋の紹介はないが「肥陽諸士鑑」には記載あるも、図が小さくて判読できない「丸に■■紋」
■村松岩吉は、(南東41-8)村松尉助家の4代目。家紋は「丸に違い丁子」
■村井永八は、(南東41-2)村井 猛家の4代目。家紋は「 」「 」
■村川作蔵は、(南東41-20)村川作左衛門家の7代目。家紋は「丸に桔梗紋」
■椋梨角兵衛は、(南東41-16)椋梨郡次家の6代圓太(角兵衛)。宝暦期ながく郡代を務めた。
家紋は「陰丸に一文字に三つ星」「亀甲に左巴紋」
■椋梨信八は、(南東41-9)椋梨丈右衛門家の4代目。家紋は「亀甲に左巴紋」で同上分家。
■梅原善内は、(南東41-15)梅原善之助家の7代膳内(善之助)、八代郡代などを務めた。
初代九兵衛は長曾我部一族にして名は政親、九兵衛と称す。細川侯に仕へ御使番組、御宝蔵預、御留守居役御目付などを勤め、
食禄六百石を賜はり、又有馬の役に功あり。尚細川綱利襲封の時珠功ありし故を以て袖引梅原の異名を得たり。
家紋は「隅立平角に違い矢紋」
■梅田藤大夫は、【丹後以来】 (南東41-13)梅田文之允 家の7代目辰次(藤大夫・甚右衛門)。家紋は「隅切り立角に梅鉢紋」
■村松藤八は、御馬方 (南東59-17 茶・鷹・馬)村松藤八家の3代目。家紋は「丸に違い丁子紋」
■村井椿寿は、(南東56-17 医)村井雲臺家の9代 椿寿(琴山)
名は■(木篇に屯)、字は大年、椿壽と称し、琴山と号す。見朴の長子なり。古医方を唱へ西藩其風に嚮ふ。稟禄百五十石、
再春館医員となり又侍医を兼ぬ。蓋し異数なり著書数十部あり。
家紋は「隅入り立角に違い鷹羽紋」初代が菊地肥後守藤原武包であることによる。
ウイキペディアより引用
■村井藤十郎は、(南東41-26)村井十右衛門家の初代。同上椿寿の弟で創家が許された。家紋同上