津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水騒動

2022-06-23 18:32:28 | 歴史

 5月初旬愛知県豊田市の取水堰の底が抜けるという珍事が発生した。
こういうことが発生するのだと驚かされたが、TOYOTAをはじめとする工場や、田植え時期の農業用水の取水が出来ないという異常事態となった。
当時はメディアも大々的に報道していたが、最近ではWEB で調べてもよく判らない。

熊本は水の宝庫で水道水も湧き水だし、こういう話はよそ事のように思っていたが、よくよく考えると全県下という話ではない。
昔の人たちが苦労をして用水路を作りこれが現役で活躍してい居る所は多い。

「熊本藩年表稿」をみると、米の収穫が干ばつに依って大打撃を受けたことの記録が多くみられるが、各地に灌漑の施設が行きわたっていたという思いで考えると間違うことになる。「肥後藩農業水利史」という本田章男氏の著によると、降雨量の少ない時期川上で取水し、水争いが多くあったことが記されている。
また、鹿子木惟善著「歛法問答」では、白川の課題開発であると、意外な指摘がある。    
藩の重臣の御赦免開き地に引き込まれたものらしく、漏水もひどいと鹿子木は指摘している。
下流域の惣庄屋や郡代などの申し立てにより話し合いも行われているようだが、川下側の不利は否めない。
藩の米の収穫は、藩全域の問題でありまさに農業用水の管理問題は重大事であった。
雨ごい・虫追いなどの行事も真剣事であったろう。

矢部の通潤橋の建設などが、まさにその土地の農民たちの総意にもとづく郷納金で賄われ建設されたというダイナミックな話も、まさに農業の命である水を求める切実な思いがなさしめた成果である。
今は観光の大事な目玉であるが、まだ現役である。

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■佐渡守のぼやき

2022-06-23 07:16:46 | 歴史

 寛永十四年天草島原にて一揆が勃発した。押し詰まった極月(十二月)廿五日の長岡監物宛長岡佐渡(興長)の書状を読むと、光尚をはじめ諸将、未だ出陣もままならず河尻に詰めていることが判る。

 頼母佐(有吉)は嶋原に被遣候人数之惣司として渡海仕筈ニ付、直ニ河尻ニ罷在、佐渡守・監物両人之内も壱人宛河尻ニ詰、
 諸御用弁シ候様被仰付、興長則罷越候処、左候而ハ熊本にての御用筋不便利ニ付、監物・頼母ニも申談、其趣等申上候、
 右ニ付廿五日佐渡守河尻より監物ニ遣候状
  
   一筆申入候、拙者儀何とそ仕、今晩罷帰候様ニ可仕候、然ハ其元ニ両人居不申候而ハ不成儀ニ候通、
   沅西堂へも委申候処ニ、一段尤之由ニ而、何とそ仕貴様無御越様ニ仕度存事候、拙者も罷帰候ハゝ、
   御用之外は此地へ不参様ニ爰元相済シ罷帰度存候、併此段いまたしかとハ究り不申候、昨日我等罷越
   候刻なんばんつけ物つほのちいさきを一ッ持参仕、肥後様へ上ヶ申候間、貴様も御越之儀ニ候ハゝ、
   何にても手かるき物を御持参可然候、爲御心得申入候、将又榎津へ舟廻シ候へとの 公儀御触状之
   写今朝参、請取申候、爰元も何かといそかわしき体ニ而御座候、面上ならてハ不得申候、恐惶謹言
      極月廿五日              長 佐渡(判)
         長 監物殿
            人々御中
   尚々、夜前も鳥うたひ時分迄 御前ニ相詰、ひざのいたさ草臥申候事可被成御推量候、以上

三卿家老の内、有吉頼母佐は嶋原に渡る「人数之惣司」(総大将)で河尻に詰めて公儀の指示を今か今かと待っている。 
松井佐渡(興長)は御用繁多である。光尚の御前に「鳥うたひ時分」(鶏が啼き始める時分)詰め、膝の痛さで草臥れているというボヤキが面白い。「面上の上」(お会いした上)でなければ申し得ずとはまさか膝の痛さと草臥れの話ではあるまい。細川家筆頭家老の重責は重い。秘密裏の話は直接対面の上という訳だ。
ここに詰めている訳にはいかず、御城へ戻りたい、そして監物(米田是季)と入れ替わろうとの話である。
自分が光尚に届けた土産を示し、同様の物を持参するように指示がこまかい。

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