5月初旬愛知県豊田市の取水堰の底が抜けるという珍事が発生した。
こういうことが発生するのだと驚かされたが、TOYOTAをはじめとする工場や、田植え時期の農業用水の取水が出来ないという異常事態となった。
当時はメディアも大々的に報道していたが、最近ではWEB で調べてもよく判らない。
熊本は水の宝庫で水道水も湧き水だし、こういう話はよそ事のように思っていたが、よくよく考えると全県下という話ではない。
昔の人たちが苦労をして用水路を作りこれが現役で活躍してい居る所は多い。
「熊本藩年表稿」をみると、米の収穫が干ばつに依って大打撃を受けたことの記録が多くみられるが、各地に灌漑の施設が行きわたっていたという思いで考えると間違うことになる。「肥後藩農業水利史」という本田章男氏の著によると、降雨量の少ない時期川上で取水し、水争いが多くあったことが記されている。
また、鹿子木惟善著「歛法問答」では、白川の課題開発であると、意外な指摘がある。
藩の重臣の御赦免開き地に引き込まれたものらしく、漏水もひどいと鹿子木は指摘している。
下流域の惣庄屋や郡代などの申し立てにより話し合いも行われているようだが、川下側の不利は否めない。
藩の米の収穫は、藩全域の問題でありまさに農業用水の管理問題は重大事であった。
雨ごい・虫追いなどの行事も真剣事であったろう。
矢部の通潤橋の建設などが、まさにその土地の農民たちの総意にもとづく郷納金で賄われ建設されたというダイナミックな話も、まさに農業の命である水を求める切実な思いがなさしめた成果である。
今は観光の大事な目玉であるが、まだ現役である。