津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■平井勘左衛門と被分町と長安寺

2022-06-14 11:02:06 | 地図散歩

            

    平成28年11月の熊本史談会例会では、安政の比とされる「熊本所分絵図」12枚を駆使して、現代の道筋などと比較しながら「熊本城下を古地図で散歩する」という企画をした。
足がお悪い会員のKさんは、本当に歩いて回るのかと思われて欠席された。
その資料は、ノリで張り合わせて上の写真のような体裁の冊子となり、出かける時の必需品となっている。
そんな古地図を広げてみたら長安寺界隈が目に飛び込んできた。

 市電水道町電停の肥後銀行水道町支店脇の道を進むと、現・手取菅原神社に突き当たる。
こにには熊本を発祥の地とする合気道の道場「万生館」があった。多くの弟子が全国に散らばり傍系の道場が多く存在する。

前の細い道は近世記から変わらない一本道で「長安寺通り」と呼ばれている。
この手取菅原神社があった辺りが、長安寺であったとされる。万生館の辺りは墓地の跡とは高田Drのお話だった。

右に曲がるとすぐに「国道3号・57号」に出、57号線をまたぐと江戸期の地名「被分(わかされ)町」があった。
現在の水道町10~14番地といった処で、鉄炮衆の屋敷が集中していたが、表通りには知行取の屋敷が並んでいた。
その中に平井勘左衛門の屋敷があったというが、古地図では見出せない。
「元々は手取本町に屋敷があったが、この地に新たに屋敷地を拝領したから、手取被分町と呼ばれた」とは「くまもと城下の地名」の著者の一人・小崎達也氏のお説である。
ある時、勘左衛門は夢を見て、屋敷の井戸に唐の尊像があるとのお告げがあり、翌朝調べるとその通りの事であった。
敷地内に祠をつくり「半尺」ばかりの尊像をお祀りした。五十年ほどたった宝永五年大火事に見舞われ、屋敷もその祠も焼失した。
処が元屋敷に近い長安寺の梅の木の根元に光るものがあるので掘り起こすと、まさしく平井家のあの尊像であった。
長安寺では境内に社を築いてこれを祀つた。これが手取天満宮だとされる。

代々の数葉の古地図にはまさしく長安寺の書き込みがある。西南の役で焼失したと聞いた。
古い絵図を見ると左角に「手木の者」の詰所らしいものがあったことが判る。
「手木=十手」だから、熊本にも「十手者」がいたと思われる。
武道に「捕手小具足」というのがあるそうだから、さながらそんな術を心得ていた人たちかもしれない。
何やら万生館の合気道に通づるものがあって面白い。

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■ジェーンズ邸現況

2022-06-14 06:59:55 | 熊本

ジェーンズ邸 熊本洋学校教師館ジェーンズ邸 - Wikipedia 熊本大地震で完全倒壊したジェーンズ邸(洋学校教師館)は、その再建地問題で紆余曲折があったが、水前寺成趣園の南側の公園うちに決定を見た後、約二年前に着工された。

 そのジェーンズ邸の現場は、左の写真のような、完成予想図を配した洒落た外柵に囲まれて内部の状況は見えなかったが、工事の進捗状況は、同志社大学の交友会・熊本支部がそのHPのなかで紹介しており、粗方の状況は承知していた。
今般、熊本史談会の中村君が、その外柵が取れたというので写真をとり送ってくれた。感謝。

 

         

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