津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「宗久隆さん」つづき

2022-06-01 13:47:10 | 先祖附

 過日■宗久隆さんを書いた。
改めて「古城考」(巻之中ー山本郡)の「岩野嶽道祖古城」の項を読んでみると、「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」の内容に違和感を感じた。
善蔵は「茶うす山の図引となったときや岩野のお武家で宗久隆さんがこの役になんなはったばい」と言っている。
そして熊本城の着工については「けいちょう三年からお城のたてかたに手をつけなはつた」と記されている。
現在では大方の研究者が、この「慶長三年」の記述を以て熊本城の着工としている。
先にも書いたが、この「たてかた=建て方」という言葉は、木造建築に於ける土台の敷き込みから棟上げ迄をいう。
つまり慶長三年のころには、茶臼山はすっかり整地がなされ、高石垣が組まれて本格的に建て方が始まっている。
54万石の領主となる慶長五年(1600)の段階では天守は完成まじからしく、黒田如水を「天守」に迎え入れるべく工事を急がせている。

 そうすると、「宗久隆さん」が茶臼山の図引きをしたというのはいつの頃だろうか。
清正が肥後半国の領主となった天正十四年(1586)以降にはその考えが確実なものになったのだろう。
実はこの「宗久隆さん」が現役で岩野嶽道祖城にいたのは、系図によると「亨録四年(1531)辛卯年退去」とあるから、天正十四年からしても、50年以上前の話である。
存命であったとしても相当の高齢であり、その任に堪えることが出来たのか?
宗久隆はその後は菊池において生活をしたとされ、その子孫は裕福な町人として名を残している。

 「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」は、近代になってからの史料で、西洋紙にペン書きされている。
書写したものであろうが、「民政記録」編者の沢田延音は写し間違いを棒線で消したりしている処が多々見られ、改めて見てみると実はこの宗久隆についても次のように棒線が引かれていた。
岩野のお武家で宗久隆さんが・・」となっている。
しかし沢田はその名前を改めることはしていない。これはどういうことなのか。久隆さんではない「宗さん」という事か。

鈴木喬先生の著「肥後宗氏一族の盛衰」にある系図からすると、「岩野のお武家」は久隆ではなく、二男久盛とか、加藤家家臣となった嫡男家の孫の主水(与兵衛・重頼)か、二男家の孫・少兵衛重徳ではなかろうか。
鈴木喬先生の著「肥後宗氏一族の盛衰」を手に入れたいが「日本の古本屋」でも見つからない。残念至極・・・

                       

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■御侍帳・家紋から考える(26)

2022-06-01 06:50:47 | 家紋

                                   

                   新・肥後細川藩侍帳【た】の部

■高橋寿太郎は、(南東23-15)高橋繁丞家の7代目三郎兵衛、初名が寿太郎である。家紋は「丸に杏葉紋」

■高橋治部右衛門は、(南東22-9)高橋閑水家、3,5~7代が次部右衛門を名乗り、人物の特定が出来ない。
 家紋は「亀甲に三つ雁金紋」

■高橋永助は、「細川藩家臣略歴」に名前が見えない。

■高岡吉右衛門は、(南東23-18)高岡数弥家の5代目、家紋は「隅切り平角に六つ日足紋」

■高原小右衛門は、明治二年正月三日千葉川津沖にて沈没したハーマン号の「生死未相分」の中に高原小右衛門の名が見える。(肥後藩國事史料 巻九)
 この人物かどうかは不明。家紋は「毬挟み紋」

■高並猪兵衛は、(南東22-26)高並九郎家の5代目。「家紋は変わり重ね盃紋」?、「蛇の目紋」

■高見権右衛門は、【丹後以来】(南東22-4)高見怘(マモル)家の8代右源太か?家紋は「丸に小文字紋」「変り二つ並び三つ矢」紋
 高見家は、阿部一族誅伐に当たり裏手門から討ち入りの主将を務めた和田庄五郎・重治(高見権右衛門)を初代とする。
     高見家からお贈りいただいた印形

■高岡閑寿は、御医師で (南東57-18 医)高岡元眞家の4代目。家紋は「平六つ目紋」?

■高島恒吉は、「細川藩家臣略歴」に名前が見えない。

■高嶋大八は、「細川藩家臣略歴」に名前が見えない。

■谷権右衛門は、丹波山家城主・谷衝友の五男を初代とする(南東22-3)谷助九郎家の 6代内蔵允(権右衛門)である
 
明和三年六月~安永三年七月 番頭・明和三年九月~安永四年九月 鶴崎番頭、安永五年七月十一日御知行被召上候 
 家紋は「三つ地紙に左二つ巴紋」「揚羽蝶紋」

■谷 太郎九郎は、「細川藩家臣略歴」に名前が見えない。

■垂水惣兵衛は、寛永期に小倉・肥後入国時の同名人がおりその子孫だと思われるが、「細川藩家臣略歴」に名前が見えない。

■武田準蔵は、(南東22-24)武田一蔵家の 3代・隼太(準蔵)である。家紋は「丸に■■紋」  

■立石助之進は、(南東61-25 一代御中小姓)立石助次郎の6代目・助之進 擬百石である。家紋は「隅入り平角に三つ巴紋」  

■武居直人は、(南東23-12)武居忠助家の5代目である。家紋は「平角に七曜紋」  

■鯛瀬善助は、【丹後以来】(南東23-16)鯛瀬善九郎家の6代目である。家紋は「鋏紋」今一つは初見で不詳。

■樽井五右衛門は、【丹後以来】、(南東23-11)樽井五左衛門家の6代目・佐五左衛門の事か・不明
 家紋は「丸に八本矢車紋」

コメント (7)
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