過日■宗久隆さんを書いた。
改めて「古城考」(巻之中ー山本郡)の「岩野嶽道祖古城」の項を読んでみると、「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」の内容に違和感を感じた。
善蔵は「茶うす山の図引となったときや岩野のお武家で宗久隆さんがこの役になんなはったばい」と言っている。
そして熊本城の着工については「けいちょう三年からお城のたてかたに手をつけなはつた」と記されている。
現在では大方の研究者が、この「慶長三年」の記述を以て熊本城の着工としている。
先にも書いたが、この「たてかた=建て方」という言葉は、木造建築に於ける土台の敷き込みから棟上げ迄をいう。
つまり慶長三年のころには、茶臼山はすっかり整地がなされ、高石垣が組まれて本格的に建て方が始まっている。
54万石の領主となる慶長五年(1600)の段階では天守は完成まじからしく、黒田如水を「天守」に迎え入れるべく工事を急がせている。
そうすると、「宗久隆さん」が茶臼山の図引きをしたというのはいつの頃だろうか。
清正が肥後半国の領主となった天正十四年(1586)以降にはその考えが確実なものになったのだろう。
実はこの「宗久隆さん」が現役で岩野嶽道祖城にいたのは、系図によると「亨録四年(1531)辛卯年退去」とあるから、天正十四年からしても、50年以上前の話である。
存命であったとしても相当の高齢であり、その任に堪えることが出来たのか?
宗久隆はその後は菊池において生活をしたとされ、その子孫は裕福な町人として名を残している。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」は、近代になってからの史料で、西洋紙にペン書きされている。
書写したものであろうが、「民政記録」編者の沢田延音は写し間違いを棒線で消したりしている処が多々見られ、改めて見てみると実はこの宗久隆についても次のように棒線が引かれていた。
「岩野のお武家で宗久隆さんが・・」となっている。
しかし沢田はその名前を改めることはしていない。これはどういうことなのか。久隆さんではない「宗さん」という事か。
鈴木喬先生の著「肥後宗氏一族の盛衰」にある系図からすると、「岩野のお武家」は久隆ではなく、二男久盛とか、加藤家家臣となった嫡男家の孫の主水(与兵衛・重頼)か、二男家の孫・少兵衛重徳ではなかろうか。
鈴木喬先生の著「肥後宗氏一族の盛衰」を手に入れたいが「日本の古本屋」でも見つからない。残念至極・・・