新・肥後細川藩侍帳【な】の部
■内藤市之允は、(南東29-8)内藤九八郎家の6代目・平左衛門(市之允)
寛政三年四月~寛政八年九月 飽田詫摩郡代(寛政七年一月 市之允ト改名)、寛政八年九月~享和三年六月 玉名郡代
享和三年六月~文化元年十二月 奉行副役、家紋は「丸に小文字紋」
■内藤五兵衛は、(南東29-6)内藤五兵衛家の7代目・喜一(五兵衛)、家紋は「丸に流鼓紋」
■内藤は、 名前の記載がない、家紋は「丸に剣花菱紋」
■内藤長十郎は、殉死の家(南東29-5)内藤信之允家の9代建司(左大夫)か。2代長十郎・元続 は忠利に殉死、隠居していた父が跡式相続し、長十郎の弟が相続した。家紋は「丸に杏葉」もしくは「丸に茗荷」いずれか特定できない。
■内藤宗賢は、御医師で【青龍寺以来】【田邊城籠城衆】(南東56-15 医) 内藤宗賢家の8代宗賢。家紋は「日の丸扇紋」
■永井紋右衛門は、(南東28-9)永井謙吉家、代々紋右衛門名乗りの人が多く、人物の特定が出来ない。
家紋は「隅切り立角に花菱紋」
■永井 幸琢は、【丹後以来】御医師(南東56-16 医)永井幸淳家の5代、家紋は記載なし
■中村茂助は、【青龍寺以来】(南東29-17)中村新平家の8代目。初代新助妻は忠興公御乳母(父藤孝公、義昭公御漂伯
御供の折、町屋に隠れ御育永禄十一年御感賞、御乳を大局被仰付新助知行百五拾石、妻に百石被為拝領、二人共豊前病死
家紋は「丸に毬寄せ紋]「丸に抜け九曜紋」
■永広格蔵は、(南東28-23)永廣次郎八家の5代目。消息として「文化七年五月七日:永廣格蔵、祖父老衰ニ付、医薬等不便利ニ付、
出府所江養母差添置申度段相達候付、其通及差図候段、組脇より届候事 (熊本市史資料編第三編p260在宅願頭書)」とある。
永広姓は熊本市の出水の長溝地区に多く居られたように思う。家紋は「隅切り平角に千切紋」
■永田司馬記は、(南東26-17)永田 正家の8代目司馬記(十左衛門)である。家紋は「丸に違い角」「一文字に三つ星」
■永田仁三兵衛は、(南東26-19)永田武左衛門家の6代目、嫡子の傳之助(金左衛門)は奉行職へ上った。
家紋は
■永田一郎は、(南東28-13)永田内蔵次家の5代目。家紋は「一つ右巴」
■永山八郎助は、不明
■永松民熊は、(南東26-16)永松庄之助家の8代目。家紋「隅切り平角に左三つ巴」「 」
■永屋市兵衛は、(南東26-13)永屋伊平家の6代目猪兵衛(市兵衛)。家紋は「 」「 」
■永屋清右衛門は、(南東28-12)永屋大次郎家の6代目。家紋は「蛇の目紋」
■永良弥角は、(南東26-10)永良慶次郎家の6代目。家紋は「丸に左巴紋」
■永良儀右衛門は、(南東28-8)永良壬生彦家の6代目。同上家の本家筋。家紋は同上
■長塩清右衛門は、(南東28-3)長塩清一郎家の7代八百八(清右衛門)か。家紋は「柏巴紋」か?