津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■わんど

2022-06-22 08:21:53 | 徒然

「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」にわんどという言葉が出てくる。

ウイキペディアを見ると、その説明に少々筋違いな表現が見える。
「ワンドは、淀川の改修工事によって生まれたものであり、もともと局地的な用語であった。明治期に行われた淀川の改修工事では、蒸気船が遡行しやすいように、あえて水路を曲折させて流れを緩める工事が行なわれた。水路が曲がった部分は水圧の影響を受けやすいので、岸から川に向かって垂直に水制とよばれる河川構造物を設置した。やがてこの水制に囲まれたところに土砂がたまり、その上に水際を好む植生が繁茂し、現在のワンドの元の形が作られた。」とある。

 どなたが書かれたものか判らないが、200数十年前の熊本では、すでにワンドは言葉としても治水・利水の機能として存在していた。
上記ウイキペディアではその語源として「入江や川の淀み、淵などを「わんど」と呼ぶ地方があり・・・」と書いている。熊本のわんどはこれに近いが、これとて説明不足で、熊本のわんどはこれらの機能を形成させるために人工的に作ったもの、または水制の「堰や刎」などに依って自然に形成されたものを含めての総称である。
ウイキペディアが記する処を、大正解と考えてはならない一例である。(ほかにも多々あるが・・・)

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■四冊の本

2022-06-22 07:01:55 | 書籍・読書

                   

 他にも手元にいろいろ熊本城関係の本はあるのだが、私が疑問に思う事に答えを得ようとこの四冊を精読している。
   Ⅰ、隈本古城史      1984・11・30     熊本県立第一高等学校
   Ⅱ、入門江戸時代の熊本  1994・  4・  1  松本寿三郎編 三章文庫
   Ⅲ、加藤清正・築城と治水 2006・  5・27  谷川健一編  冨山房
   ⅳ、熊本城・歴史と魅力  2008・  3・30  富田紘一著  熊本城顕彰会

  発行年を見ると、14年前には私の疑問に対する説明はいろいろなされていたことが判る。勉強不足がはなはだしい。
もっともこれらの本を私が手に入れたのは、Ⅰについては最近の事である。
ただし私の疑問にたいして、これらの著が確答いただいているわけではない。以下私のQとAである。

 Q1、茶臼山ト隈本之絵図
    1、制作時代の比定   
      A・「Ⅰの前史の付論として森山功氏の茶臼山ト隈本之絵図についてという論考があり、工藤敬一・阿蘇品保夫・富田紘一氏
         らとの意見交換により、千葉城築城以前を示したもの」とある。    
    2、四木社や神田原の位置(坪井川の川向うに描かれている)
      A・この問題に対する答えは見受けられない。「書き間違え」という記述も見えない。
    3、白川の流路の変更の時期と自然河床か人口河床か
      A・この問題も確答は見受けられない。

 Q2、熊本城築城の時期
      A・慶長六年着工(続撰清正記)~十二年完成(乃美文書)とした一時期の論考は影を潜めている。
       現在では大方が三年着工としているが、裏付け史料として「Ⅱに於ける森山恒夫雄氏の論考「隈本から熊本へ」において、
      「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺覚」の「慶長三年建て方」の記述を採用されたことは画期的である。

 Q3、白川の蛇行の原因
      A・茶臼山ト隈本之絵図の成立年において直流していた白川が、慶長国絵図で見られるような蛇行の原因についての積極的な
       発言は見受けられない。京町台下を迂回して流れていた坪井川は、かっての厚生年金会館の建築にあたっての地盤調査で
       人口河床である事が証明されている。本来の流れは「堀」として残されていたのだろう。
       それを考えると私は熊本城築城時に人工的に開削して坪井川につないだと考えて居るが、何の根拠もない。
                         (どこかの大学で模型でも作って実験して極めてほしい。)
 Q4、細川時代に継ぎ足されたという二様の石垣上に、加藤時代の本丸御殿があることに就いて
      A・本丸御殿の建設の目玉とも思える「昭君の間」が細川時代に継ぎ足された石垣の上に存在するという事は、次の二択しかない。
          1、昭君の間が石垣の継ぎ足し後(細川時代)に立てられた
          2、細川時代の形式だとされる石垣が、加藤時代の石工に依って建設が済んでいたこと
        私は(2)としなければ、この二様の石垣は説明がつかないように思う。

         追記  ■軌道修正か「二様の石垣建設年」で書きましたが、加藤時代という事になったようです。

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