昨日のブログ「徒然なか話」では「消えゆく京町の面影」が紹介されていた。ここに「神風連の乱で襲撃を受けた陸軍第13連隊長・与倉知実(よくらともざね)中佐の旧居跡があった」と記されていた。
ウィキペディアによると「自宅を神風連・中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。しかし、明治10年(1877)の西南戦争「段山の戦い」で被弾した。
同じ日、鶴子は女子を熊本城で出産したが、与倉は翌日死去した。」とある。
実は私の二従兄弟にあたるK氏は、その母親が父の従兄妹にあたる。
そのK氏から先祖に当たる中垣景澄の史料を一昨日お送りいただいて一生懸命読んでいた。偶然は恐ろしい。
景澄の子息・景律の夫人がK氏で、その三男がK家を継ぎ、父の従兄妹が嫁いだという事になる。
一党の者が、もみ手をしながら「御免下さい。小者でございます」と言って逃げる与倉連隊長に一太刀浴びせたが、与倉とは思わずにそのままにしたため逃げ去ったらしい。中垣景澄は連隊旗を奪い二の丸御門から城内に入った。
与倉は軍にかえり鉄砲隊を率いて反撃し、中垣はそんな銃撃の中に斃れて死去した(37歳)。
その与倉知実も翌年の西南の役の大激戦地・段山で負傷しのち死去する。
そして又奇しくも、熊本史談会の6月例会では、西南の役研究家で郷土史家・作家 勇知之氏をお迎えして「西南の役の真実」をお聞きする。
この時期、それぞれの人たちがそれぞれの立場や信情、職務を通じて対峙して命を奉じていく。
約145年前、私たちの四代ほど前の先祖たちである。