津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■中垣景澄と与倉連隊長

2022-06-10 08:46:35 | 歴史

 昨日のブログ「徒然なか話」では「消えゆく京町の面影」が紹介されていた。ここに「神風連の乱で襲撃を受けた陸軍第13連隊長・与倉知実(よくらともざね)中佐の旧居跡があった」と記されていた。
ウィキペディアによると「自宅を神風連・中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。しかし、明治10年(1877)の西南戦争「段山の戦い」で被弾した。
同じ日、鶴子は女子を熊本城で出産したが、与倉は翌日死去した。」とある。


 実は私の二従兄弟にあたるK氏は、その母親が父の従兄妹にあたる。
そのK氏から先祖に当たる中垣景澄の史料を一昨日お送りいただいて一生懸命読んでいた。偶然は恐ろしい。
景澄の子息・景律の夫人がK氏で、その三男がK家を継ぎ、父の従兄妹が嫁いだという事になる。
一党の者が、もみ手をしながら「御免下さい。小者でございます」と言って逃げる与倉連隊長に一太刀浴びせたが、与倉とは思わずにそのままにしたため逃げ去ったらしい。中垣景澄は連隊旗を奪い二の丸御門から城内に入った。
与倉は軍にかえり鉄砲隊を率いて反撃し、中垣はそんな銃撃の中に斃れて死去した(37歳)。
その与倉知実も翌年の西南の役の大激戦地・段山で負傷しのち死去する。

 そして又奇しくも、熊本史談会の6月例会では、西南の役研究家で郷土史家・作家 勇知之氏をお迎えして「西南の役の真実」をお聞きする。
この時期、それぞれの人たちがそれぞれの立場や信情、職務を通じて対峙して命を奉じていく。
約145年前、私たちの四代ほど前の先祖たちである。

 

 

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■2012年7月12日の熊本水害と「びわんくび」

2022-06-10 07:15:31 | 熊本

 今日も暑そうだ。といっても今年はまだ30℃ぎりぎりといった処だが、80歳という年齢はなかなか体がついていかない。
散歩は何とか欠かさず続けているが、自衛隊一周の3.4㌔でお茶を濁している。
明日くらいから雨模様で、梅雨入りになりそうな気配である。そうして1週間・10日と切れ目ない雨の毎日になりそうだ。

 処で私は現在、「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」に出てくる、各地の河川の「塘」や「堰」の場所や詳しいデータを勉強しているが、唯一判らないのが善蔵が云う「びわんくび(枇杷の首)」というものだ。
じつは「枇杷の首堰」というものが実存している。南阿蘇村久木野にあるのだが、これは細川時代、寛保年間に作られたもので、時代が合わない。
ある研究者はこの「びわんくび」を「渡鹿堰」だと比定されているが、なんとなく違うという感じをもつが、否定するには材料が見つけられない。

 もう10年程になるが、熊本市の龍田陣内地区の白川にこぶのように飛び出した「リバーサイド・ニュータウン」という新興住宅団地が、2~6mという高水位になった白川の激流に飲み込まれ甚大な被害を出した。白川の流れがある限り、災害は繰り返される。
素早い対応がなされて、白川改修案が提示され、多くの人たちがこの地を離れることを余儀なくされた。
国はこのこぶ状の土地を1/3程削り川幅を広げる工事を始めた。
私は興味があって何度もこの場所に出向いた覚えがある。こぶは削り取られて立派な護岸がなされ、大きく迂回していた澪筋も河床も掘られて位置を変え随分緩やかになった。
いろいろ「枇杷の首」を検索していく中で、2012年7月の九州北部豪雨の災害状況を検証した「2012年7月12日に熊本県で発生した豪雨と洪水災害の特徴」という論考を見つけた。
この中に、この白川の中に飛び出したこぶの部分を地元では「枇杷の首」と読んでいたらしいことを発見した。
上記論考に色々な絵図が記されているので参照いただきたいが、善蔵さんの話の「びわんくび」はまさしくここであろうと確信した事であった。

 このこぶの先端部は、大きく蛇行する河道によって水が増えると対岸部湾曲部は、猛烈な水圧を受けている。
当然のことながら人工的に普請がなされたのであろう。
そういう認識で眺めていなかったから詳しく確認していないが、これは改めて現地を眺めてみる必要があると、大いに反省している。
「渡鹿堰」だとするお説より説得力ありと思うが如何・・・

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