10日ほど前、サボテンにポッコリ花芽が出てきたのを確認して、毎日観察をしてきた。
昨日「明日は間違いなく咲くだろう」と確信し、今日起き掛けに見てみると薄紅色の直系5㎝ほどの花が咲いていた。
私の娘が結婚した時の「引き出物」のなかに何故かこれが含まれていた。丈が3㎝ほどの小さなサボテンだったが、いまでは15㎝ほどになっている。
そんな曰く付きのサボテンだから枯らす訳にはいかない。
最初に花が付いたのは十年ほど前でもあったろうか、毎年とはいかなかったように思うが、いつもきれいな花をつける。
長女が来年は大学をで就職するのだが、工学部で材料工学とやらを選考したが、コロナ禍の中での学生生活は対面授業がほとんどなく、「勉強した感」がないらしく、どこに就職するのやら・・・
そんな孫娘の成長を見るような思いで、毎年楽しんでいる。
そして傘寿じいさまは、毎年の事、財津和夫の「サボテンの花」の一節を口ずさんだりするのである 。
先に図書館に出かけた折、「家系永代記録 大和源氏 澤井家」という本を見かけてしばらく拝見した。
改めて澤井氏が、細川家に滅ぼされた一色家の家老職であった真下元重とその弟・澤井重包であったことを再認識をした。
真下元重は細川勢に攻められて弓木城で討死、次弟澤井重包は弓木城落城後細川家に召し出された。
元重の子・七兵衛は細川忠興・忠利に仕えた、300石。その姉が「サイ」忠興の側室となり・岩千代(松井寄之)を産んだ。
しかしながら、忠興の命により沼田勘解由に再婚せしめられた。
沼田家記によると勘解由は「死を賜っても」と拒み続けたが、忠利がそうなれば自分が介錯をもしようが、是非お受けするようにとの説得にとうとう受け入れたとある。
前の年に出産した「サイ」は、元和4年(1618)の秋に沼田延元に再嫁している。
我が子の岩千代(元和3年‐1617-正月生まれ)は、6歳で松井興長の養嗣子となったが、生母と別れたこの岩千代はその間どのように育てられたのだろうか。
松井興長の室で養母である古保は、忠興側室松の丸(藤)の娘であり、「サイ」はわが手で育てることは叶わなかった。
沼田勘解由も寛永元年(1624)に死去、みずからも寛永十五年(1638)に死去した。悲しい現実が細川家の歴史の中に黒いシミとなって残ってる。
ちなみに、忠興の生母・麝香は沼田清延の妹であり、忠興と延元は従兄弟の関係である。
一方、澤井重包の嫡子は忠興に仕え八代にお供したらしいが、忠興の死後八代領が解体されると松井家家臣となる。
次弟・正重の方は、直接松井家家臣となったが、元和七年(1621)従兄姉「サイ」の子・岩千代の傳役を勤めた。こちらが松井家家臣澤井家の初代である。
次回では真下家につながる女系並びに養子・養家を見てみたい。
ーー澤井・真下家関係略系図ーー
松井興長
藤(松の丸) ‖======岩千代(松井寄之)・・・・・・・・・・・松井家
‖ーーーーーーーーーーーー古保 ↑
細川忠興 |
‖ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー岩千代(松井寄之)
澤井元家ーーー+ーーー真下元重ーーー+ーーーーーーーサイ
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| | 沼田勘解由(延元)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家家臣・沼田家
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| +ーーー真下七兵衛元行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家家臣・真下家
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+ーーー澤井重包ーーー+ーーーーーーーーー重豊
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+ーーーーーーーーー正重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松井家家臣・澤井家
松井岩千代傳役