津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■京都大原三千院

2022-06-26 06:57:58 | 徒然

 昨晩のブラタモリの「大原三千院」、私事で恐縮だが、新婚旅行でデュークエイセスの「女ひとり」の歌詞にあるお寺廻りをしたことで懐かしく拝見した。
当時のヒット曲でよく歌っていたものだが、京都に行こうと決めてから、大原三千院(及び寂光院)・栂尾高山寺・嵐山大覚寺と廻ろうという事にしたのは私の独断によるものだ。
敬愛してやまない京都洛外人にして「京都ぎらい」の著者、日本文化教育センター所長の井上章一先生がお聞きに成ったら何といわれることだろう。
その他はお決まりのコースのお寺を廻り、知恩院前のお店で湯豆腐を食べたことくらいしか覚えていないが・・・55年前の話だ。
歌詞の「恋に疲れた」というのを、しばらくは「憑かれた」と勘違いしたが・・・そんな人が一人こんなところへ行くことはないなと、間違いに気づいた。

考えてみると京都にはずいぶん行っていない。そして若狭街道を熊川(沼田家所領地)を通って小浜迄行ってみたいと思いながらも果たせていない。

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■明辰橋ってご存知ですか

2022-06-26 06:53:34 | 熊本

 時折連絡してくる悪友が先日、「おい、めいたつ橋て知っとるかい」と言ってきた。
「聞いたことがない、どこの川だ」と聞くと「白川たい」ときた。「知らん」と応えると、ヤフオクに古写真が出品されており「明辰橋」と有るのだそうな。
私も少々驚いてしまい場所は判らぬまま「明治の辰年にでも出来たっだろ」と返事をしたが、後でこれが正解だと知り驚いてしまった。
但し「めいたつ」ではなく「めいしん」が本当らしい。

                     

 色々調べてみると、明治新政府は財政に困窮し明治4年の12月に有料の橋や渡し船の許可を出して税金を取り立てたらしい。
太政官布告648号は「治水修路等ノ便利ヲ興ス者ニ税金(利用料)取立ヲ許ス」というものである。
しばらくは渡し船であったらしく、一番最初は西南の役後、二本木遊郭の入り口にあたる思案橋(現・白川橋)だというのがなかなか面白い。
その後、次々に明辰橋、代継橋、子飼橋、世安橋などの木造橋の架橋がなされたらしい。
明治の辰年(13年・1880)に作られた明辰橋は、本山渡しがあった場所に作られた。現在の泰平橋である。
お金持ちが作ったものだろうが、途中では公営となったとされるが、借用したのだろうか。
川の蛇行の具合からすると上流から写されている。下河原の河原あたりか。
大正から昭和初期まで随分にぎわったらしい。
往時の雰囲気を伺わせる貴重な写真である。そして悪友に感射。

 尚々
 昨日のお昼過ぎ、新日本風土記で「橋」の特集をやっていた。それぞれの土地の「橋」が語り掛ける歴史や風景が、その橋とかかわりを持つ人たちの心の中に大きく残されている。
夫々の橋に個性と主張めいたものがあり、それが相まって町の風情を作り上げている。
『伝統の架け橋を守りたい!〜住田町「松日橋」架け替えプロジェクト〜』など、うらやましくなってしまう。
これだけで全国各地から人が集まってくる。うらやましい。(TVではかけ替えたら一週間で流されたと解説していた。
 かっての熊本の長六橋の無骨な鉄骨の橋などもまだ記憶の中に残るが、古写真に残る木造の長六橋は如何にも健気に見えて、往時の在の人たちが農閑期の合間に新町や古町に出かけて買い物を楽しんだことだろう。
長六橋下の処刑場で処刑(たまには火あぶり)があると、この橋の上は、見物人でごった返したという。
この写真の明辰橋もいろんな生活のためや、人との出会いなど数多くの話を産んだのだろう。
橋とはそんな橋であってほしいと思う。画一的なデザインや工法ではなく、そんな橋が増えてほしいと思う。

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