津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ネジバナ咲く

2022-06-16 13:01:04 | 徒然

 小指の腫れも治まったから散歩に出る。天気が良く風が気持ちよいが湿気があるのか、直ぐに汗びっしょりになる。
あまり長距離を歩くと、熱中症になる可能性があるから、自衛隊の一周コースを回る。
桜並木の植込み部分は、先日刈込がされて美しくなっている中、植物の生育は本当に早くいろんな花が癒してくれる。
そんな中、今日は二ヶ所で「ネジバナ」を見つけた。ピンクの可愛い花をつけているがまだ丈が低い。
それでも健気にいくつかのらせん状を呈している。日本古来という訳でもないようだが、歴史は結構古いらしい。
私は数年前、野生の「ネジバナ」の根を採集して植えているが、まだ数センチの高さのつぼみ状態である。
「やはり野におけ蓮華草」という言葉があるが、この植生も観賞用にはなかなか難しいらしい。
処がびつくりすることに、葉に斑が入ったりしている者は2~30,000円するという。
園芸店に置いてあるものは4~500円といった処、私のものもそのたぐいだが、「やはり野に於けねじんばな」でそのうちにどこか育ちそうなところに戻してやろうと思っている。

    

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■御侍帳・家紋から考える(30)

2022-06-16 08:22:44 | 家紋

                                           

                                                          新・肥後細川藩侍帳【な】の部  

 

■中山左一郎は、(南東28-18)中山平太郎家の3代か。家紋は「二重丸紋?」

■中嶋嘉太郎は、(南東29-21)中嶋純次郎家の6代目・嘉太郎(廣足)二百五十石当時二百石
  
中島橿園 名は春臣、廣足と改め、嘉太郎と称し後太郎と改む。又橿園、田翁、蛙麿、黄口等の別号あり。
  藩に仕へ小姓役を勤め、食禄二百石。病の為早く致仕して専ら国典歌道を修め、著書甚だ多し。
  元治元年正月二十一日没す。享年七十三。墓は春日萬日山。家紋は「■丸に二つ山紋」
■中嶋七左衛門は、同上家の本家・(南東29-25)中嶋次兵衛家の6代・槌太郎(七左衛門)か。家紋は「二つ山紋」

■中嶋次左衛門は、(南東29-22)中嶋嘉内家の3代三郎熊(次左衛門)、家紋は「隅立井筒に左三つ巴」

■中嶋土之允は、(南東29-23)中島嘉左衛門家の6代目。家紋は「木瓜紋」

■中嶋太郎右衛門は、(南東65-55 *中嶋源之助家の3代目・傳次(太郎右衛門)、家紋は「三つ扇紋」  

■中嶋次郎作は、(南東29-26)中嶋新太郎家の5代目、家紋は「丸に唐花紋」

■中路加右衛門は、【丹後以来】(南東29-2)中路新左衛門家の6代目か、家紋は「丸に三つ石紋」  
■中路加兵衛は、同上一族【丹後以来】(南東29-1)中路半之允家、代々加兵衛を名乗り人物の特定できず。家紋同上。  ■中路一平は、同上一族【丹後以来】(南東29-4)中路新之允家の6代目、家紋は「三つ・・・」  

■中路市之允は、【丹後以来】(南東29-3)中路内蔵之助家の8代目(もしくは9代目次郎助)か、家紋は「丸に鉞紋」か

■中津佐左衛門は、(南東28-10)中津三郎右衛門家の4代目大作(佐左衛門・三郎四郎)、家紋は「丸に梶葉紋」  

■長江宗雄は、(南東65-52 長江休閑家の6代目で触役触・本道 七人扶持とある。家紋は「隅切り立角に違鷹羽紋」  

■中津海安之允は、(南東26-18)中津海安之允家の7代目、家紋は「隅立角に・・・」  

■中垣淳助は、(南東28-22)中垣孫八郎家の6代目・順助とも。家紋は「隅切り平角に並び矢紋」

■中西傳大夫は、【丹後以来】(南東28-1)中西傳左衛門家の6代目・傳大夫(卯兵衛)。家紋は「丸に毬寄せ紋」  

■仲光善左衛門は、佐々成政と国衆一揆で戦った隈部親永の子孫である。初代は古町・正覚寺の開祖専祐の子・小内膳、(南東26-6)仲光助左衛門家の7代目善右衛門とも、家紋は「蛇の目に井桁紋」「上り藤紋」
 嫡男半助には不幸な事件があった。仲光半助の不幸なる死
■仲光市左衛門は、同上分家(南東26-15)仲光熊三郎家の6代七左衛門(市左衛門)か。家紋は同上

 

 

 

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■「阿部一族」余談

2022-06-16 06:43:20 | 先祖附

    主人公の阿部弥一右衛門は元豊後の惣庄屋、つまり百姓であったがその能力を忠利に買われて出頭し、わずか10年ほどの間に1,000石取りとなった。
弥一右衛門が周囲のやっかみに耐え切れず殉死した後、忠利の三回忌に当たり嫡子・権兵衛は焼香の際自らの髻を切った。
なぜこのような行動に出たのか、資料は何も語ってくれない。
一族は屋敷に籠り、誅伐の討手を迎え一族家来共に討死した。
 一方討手の大将を務めた竹内数馬は、光尚の優れた側近であったが、用人・林外記の指名によって大役を務め戦死した。
この林外記の出頭振りも驚異的である。
阿部誅伐事件は寛永20年2月21日だが、事件後、高麗門外(横手町)に250坪の土地を与えられたという。

慶安2年12月、藩主光尚は江戸で死去したが、側近で大出頭人の林外記は当然殉死するだろうと囁かれたがその気配はうかがえないし、一人重臣某は「夫々の想いがあろう」と擁護すらしている。
慶安3年4月18日に綱利への相続が認められた後の7月1日、林外記は佐藤傳三郎ほか一族に屋敷に踏み込まれて殺された。これとてその原因は定かではない。
花畑邸の目と鼻の先の桜馬場の屋敷である。どうやら、重臣某を除き暗黙の了解があったらしい。

出世は当人の努力もあろうが、藩主の「覚え目出度きもの」がなければならない。
いつの世にもこれを「しょのむ」人がいる。佐藤傳三郎等の行動はそのような浅はかな思いではなく、何やら一族を駆り立てる深い思いがあったように思われる。それは資料が残されていないこともそれを伺わせる。

          ■林外記の不可解な死

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