津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■軌道修正か「二様の石垣建設年」

2022-06-25 11:08:07 | 歴史

                                               

 昨晩、ヒロミと羽田美智子さんが熊本を訪れた、BS日テレの「発見!ニッポンの神業スペシャル」が放映され、熊本城が登場した。
その中で、「二様の石垣」の建設年が、加藤忠廣の時代だとする今までの見解を覆す発言があったことは驚きだった。
これは私が長く疑問を持っていた、本丸御殿が後年に継ぎ足された石垣(富田紘一先生の第Ⅵ期説・細川時代とされてきた)の上に建っているという事実の説明がつかない事であった。
但し、これについては詳しい説明はなく、現に本丸御殿がその石垣の上に建設されているという事実に即しての、あと付けの感も否めない。
しかし、そうであるならば長く不思議に思われたこの問題は一気に解決されたことになる。
解説者は熊本博物館の学芸員(名前を忘れてしまった)の方であったが、これが熊本市の正式な見解になるのかどうか注目したい。(富田先生の学術的見解の呪縛から解き放たれたのか・・・)
又、石垣の石として「万日山の露岩」が紹介されたが、これは実物を見てみたいと思った。
全て見たわけではないが、収穫の多いよい番組だった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■権左刎の名前の由来?

2022-06-25 07:39:36 | 熊本

 細工町5丁目地先から始まる石塘、その白川筋右岸のやや上流部に残る「ごんじゃばね(権左刎)」、白川の河床が下がったためだと思われるが、現在は陸上化している。
但し、グーグルマップで眺めても100%正しい場所が判らない。これも現場まで出かけてみる必要がありそうだ。
処で、この「ごんじゃばね」権左刎と感じが充てられており、権左衛門とか権三郎とかいう人物由来ではなかろうかと考えて居るが、これとてよく判らない。どなたかご存知の方がお有りであれば、ご教示いただきたい。
ところがグーグルマップを見ていて偶然、この石塘沿いに多くの「刎」が設置されていることが判った。
「刎」は「水刎」とか「石刎」とかいわれるようだが、流れの湾曲部に良くみられる。
白川では上流の熊本大学工学部の対岸部に沢山の「刎」がある事は承知していた。まるで鮫が口を開いた感じである。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覚控」をよむと、その工事は難儀を極めたらしい。
治水のためのこの様な古い手法が現代においても受け継がれている。暴れまわる自然の驚異に対して、先人たちの驚くべき知恵と、たゆまぬ努力に敬意を表する。
この時期になると、昭和28年6月26日の熊本大水害で多くの同窓生を亡くしたことを思い出す。
如何にも梅雨を思わせる長雨がつづき、あの大水害をもたらしたが、今年はたいした雨も降らない中、某TVのお天気解説の方は、今月中には梅雨明け宣言があるかもしれないとかのご託宣である。

追記:長い間の懸案が解決しました。富田紘一先生の「古写真帖に甦る熊本城と城下町・『熊府諸景色』の物語」に、ごんじゃ刎から写したという写真があり、その説明として「川端町の権左衛門さん」が訛ったものだろうとあった。
川端町とは細工町5丁目のとなり、地図上の町の境界線は白川の中程にある。
あの俗謡「おてもやん」にある「かわばたまっつあんきゃあめぐろ」の川端町である。13:07記

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする