津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■これは私の妄想、しかしこれで眠られる

2022-06-12 09:33:08 | 徒然

 夢にまで見る白川の大蛇行の図、先にご紹介した「びわんくび」がある龍田陣内辺りでは大蛇行する自然流路が幾重にも残されている。
何度も俎上に載せた熊本城の南側の大蛇行は、はたして自然が作り出したものなのかという疑問がずっと頭の中にあった。
地学的・自然科学的な結論は見いだせていないようだ。
   白川 

 熊本城を考える時、白川は外堀的意味合いを持つから、花畑邸が大蛇行する白川の外側にあるなど考えにくく、白川の流路を直線化する変更は熊本城の築城と並行していたと考えるのが常識だろう。
あの大蛇行というのはそもそも何なのか。
大蛇行の図を見ると、その頂点部熊本城に一番接近している処に坪井川が合流しているように見えるが、「茶臼山ト隈本之絵図」では坪井川が古川町辺りで白川に合流している。そして白川から坪井川へ入る流路は描かれていない。
これから察するに、白川が追い回し田畑あたりをへて、坪井川に合流したと考えるのが妥当だろう。
どうも人工的につないだという感がするが如何だろう。
白川を経て築城に係わる色々なものが運ばれ、古川町あたりから坪井川を経て竹の丸あたりの河岸に荷揚げされたのだろう。
しかし時期的には水位が下がることもあり、追い回し田畑の低地を掘削して白川の水を導水したのではないか。
白川の本流の流れは一時的にせき止められたのであろう。

そうして築城が終わり、導水部分は元の様に埋め戻され白川は直線化され、ふたたび熊本城の外堀としての本来の目的へと復された。坪井川は新たに開削されて井芹川につながれ、旧河道は埋め立てられた。追い回し田畑は水がなくなると、前のままの状態に戻っただけではないのか。
竹の丸ー桜馬場ー古城の南側一帯は長い時間をかけ、坪井川によって浸食されたものだと解釈してみると、いろんな図面を通しての矛盾が一気に解決する。

 白川の大蛇行に坪井川が流れ込んでいたのではなく、坪井川の舟運のための水路を確保するために水笠を上げるために一時的に白川の水を導水したのだろう。これは私の妄想かもしれないが、しかしこれでよく眠られる。如何・・・
(ただ一つ「茶臼山ト隈本之絵図」の「四木社」の位置が、坪井川向こうにあるのが大いに気に食わない)

追記 17:30
ちなみに「茶臼山ト隈本之絵図」について、森下功氏は「隈本古城史」の中の論考「茶臼山ト隈本之絵図について」で、「千葉城築城(文明年間)以前」のものとされている。一方大蛇行については、平成七年八月十二日の熊本城顕彰会発行の「熊本城」でセンセイショナルな論考「白川・坪井川流路考」を発表されたが、この中で「熊本城の築城の遙か以前から」とされている。
文明年の始まりは1469年ゆえにそれ以前の時期から、築城開始年を最も厳しい条件として、清正の初入国時期(天正16年-1588年)と仮定すると、この間120年の間に白川は流れを変え、追い回し田畑辺りを削って坪井川に合流したという事になる。
永遠の謎で終わるのだろうか?

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■御侍帳・家紋から考える(29)

2022-06-12 06:27:57 | 家紋

                                  
                 新・肥後細川藩侍帳【な】の部          

■中瀬助五郎は、(南東26-2)中瀬助一郎家の五代目である。
 中瀬家初代は松下助三郎・豊長、のち母方の姓に改め中瀬助九郎・豊長と称している。
 この松下氏、遠祖は豊臣秀吉が最初に仕えたとされる松下嘉兵衛である。
 その二男が石見、その子源太左衛門は加藤式部少輔(明成)の臣であったが会津騒動の節か浪々の身となり、嫡男豊長
    と共に官途を求めて江戸に出んとする。

 旅の途中父源太左衛門が不測の害にあい死去、寛文九年、豊長十二歳の時である。豊永は剣の修業を積み十四歳の時仇
    敵を打ち取った。

 その勇名を聞きつけ仕官の誘いが多かったとされるが、姓を母方の中瀬氏に改めたうえで細川家に仕官している。
 家紋の平四ツ目結紋は松下氏(宇多源氏佐々木氏泰綱流)の家紋である。

中村伊織は、こちらは伯耆国米子城主(17万5,000石)の中村一氏のを家祖とする、肥後中村家一族三家の嫡家。
 (南東29-12)中村兵馬家の6代目・甚之助(伊織・進士)千石である。
 文化十二年二月(比着座)~文化十四年十一月 留守居番頭、文化十四年十一月~文政三年十月 番頭、
 家紋は「十六剣輪に丸に剣花菱紋」「立花菱紋」  
中村次郎左衛門は、嫡家初代正辰の二男正貞を初代とする分家、(南東29-15)中村新太郎家の4代目。
 家紋は「十六剣輪に丸に剣花菱紋」「花菱紋」  
中村庄右衛門は、嫡家4代正信の弟・正智を初代とする分家、(南東29-18)中村庄右衛門家の4代目中村庄右衛門、恕
    斎日録を書き残した恕斎であり、その行動は吉村豊雄著「幕末武家の時代相(上・下巻)」に詳しい。
 そのご子孫は肥後金春流の家元でもある。家紋は「十二剣輪に丸に剣花菱紋」

■中村弥内は、【青龍寺以来】細川忠興の傳役・中村新助(妻は乳母、後の大局)を祖とする(南東29-11)中村九右衛門
 家の6代目。
家紋は「丸に松皮菱紋」 
 

■中村又右衛門は、(南東29-14)中村吉兵衛家の 6代左助(又右衛門) 寛政五年三月~寛政七年三月 山本郡代(山
 鹿郡兼)、
寛政七年三月~寛政** 阿蘇南郷郡代、寛政八年十二月~寛政十二年十二月 野津原鶴崎郡代、文政四年
 六月~文政五年五月 小国久住郡代。
家紋は「乾卦紋」だろうと思われる。もしくは「三文字」「三つ引き」???


■中村健助は、(南東29-16)中村信雄家の7代目・健助(養子)御小姓役根役、御給仕根役・御近習支配頭之支配
 家紋は不詳  

■中村八郎兵衛は、御船頭 (南東58-10 船)中村英馬家の7代目、家紋は「丸に三つ雁金」「七宝紋」   

■中根平兵衛は、一族二家の嫡家・(南東26-1)中根丈右衛門、代々平兵衛をなのり人物の特定が出来ない。
 家紋は「杏葉紋」  
■中根小平太は、同上分家・(南東26-8)中根市十郎家の5代目である。家紋は「丸に杏葉紋」「隅立角に橘紋」

  
■中根十左衛門は、(南東26-12)中根十郎家の4代か(時代が合わない気がするが?)家紋は「丸に蔦紋」  

■中川善左衛門は、(南東26-7)中川梶右衛門家の8代目か、家紋は「  」?????  

■中川郡兵衛は、(南東26-3)中川吟之助家の6代目、家紋は「丸に梶の葉紋」  

■中山左三郎は、(南東26-21)中山平左衛門家の6代目、家紋は「  」「六角に三つ雁金」

■中山又四郎は、(南東26-9)中山閏五郎家の5代目、家紋は「丸に山文字紋」

■中山武左衛門は、(南東28-16)中山 昇家の4代目、同上分家で家紋も同上

■中山左大夫は、御馬方 (南東59-13 茶・鷹・馬)中山惣左衛門家の6代目か?
 家紋は「隅切り平角に丸」「丸に井桁」   

■中山源助は、(南東26-14)中山源助家の7代・宇太郎(養子 源助)、家紋は「左巴紋」

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