夢にまで見る白川の大蛇行の図、先にご紹介した「びわんくび」がある龍田陣内辺りでは大蛇行する自然流路が幾重にも残されている。
何度も俎上に載せた熊本城の南側の大蛇行は、はたして自然が作り出したものなのかという疑問がずっと頭の中にあった。
地学的・自然科学的な結論は見いだせていないようだ。
熊本城を考える時、白川は外堀的意味合いを持つから、花畑邸が大蛇行する白川の外側にあるなど考えにくく、白川の流路を直線化する変更は熊本城の築城と並行していたと考えるのが常識だろう。
あの大蛇行というのはそもそも何なのか。
大蛇行の図を見ると、その頂点部熊本城に一番接近している処に坪井川が合流しているように見えるが、「茶臼山ト隈本之絵図」では坪井川が古川町辺りで白川に合流している。そして白川から坪井川へ入る流路は描かれていない。
これから察するに、白川が追い回し田畑あたりをへて、坪井川に合流したと考えるのが妥当だろう。
どうも人工的につないだという感がするが如何だろう。
白川を経て築城に係わる色々なものが運ばれ、古川町あたりから坪井川を経て竹の丸あたりの河岸に荷揚げされたのだろう。
しかし時期的には水位が下がることもあり、追い回し田畑の低地を掘削して白川の水を導水したのではないか。
白川の本流の流れは一時的にせき止められたのであろう。
そうして築城が終わり、導水部分は元の様に埋め戻され白川は直線化され、ふたたび熊本城の外堀としての本来の目的へと復された。坪井川は新たに開削されて井芹川につながれ、旧河道は埋め立てられた。追い回し田畑は水がなくなると、前のままの状態に戻っただけではないのか。
竹の丸ー桜馬場ー古城の南側一帯は長い時間をかけ、坪井川によって浸食されたものだと解釈してみると、いろんな図面を通しての矛盾が一気に解決する。
白川の大蛇行に坪井川が流れ込んでいたのではなく、坪井川の舟運のための水路を確保するために水笠を上げるために一時的に白川の水を導水したのだろう。これは私の妄想かもしれないが、しかしこれでよく眠られる。如何・・・
(ただ一つ「茶臼山ト隈本之絵図」の「四木社」の位置が、坪井川向こうにあるのが大いに気に食わない)
追記 17:30
ちなみに「茶臼山ト隈本之絵図」について、森下功氏は「隈本古城史」の中の論考「茶臼山ト隈本之絵図について」で、「千葉城築城(文明年間)以前」のものとされている。一方大蛇行については、平成七年八月十二日の熊本城顕彰会発行の「熊本城」でセンセイショナルな論考「白川・坪井川流路考」を発表されたが、この中で「熊本城の築城の遙か以前から」とされている。
文明年の始まりは1469年ゆえにそれ以前の時期から、築城開始年を最も厳しい条件として、清正の初入国時期(天正16年-1588年)と仮定すると、この間120年の間に白川は流れを変え、追い回し田畑辺りを削って坪井川に合流したという事になる。
永遠の謎で終わるのだろうか?