津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■宇土城御門は冠木門?

2022-06-17 09:34:40 | 歴史



            かっての禅定寺山門(Dr高田撮影)


 禅定寺のかっての山門(上記写真)は平成六年に取り壊されてしまったが、禅定寺は我が家の曽祖父一家や、その岳父・上田久兵衛のお墓があり、この山門の下も随分通ったものである。
もう解き崩されてからでも随分経過しているが、この威容はもう見れない。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」によると、「摂津(小西行長)が上方で死んで宇土迄行って天守を解き或いは御門も解き・・・」とあるが、その御門がこの山門となったと思っていたが、どうも違うらしい。
この山門ではなく、宇土から運ばれた門はまったくべつのものであった思われる。
「肥後見聞雑記」には「同寺外のかぶ木門は宇土城に有し黒門也、宇土落城の節並河持来て建ると云、於于今其節之柱其外瓦等残れり、破風の瓦に小西氏が紋于今有り」とある。
そして、写真にある山門は江戸後期のものだと「平成肥後国誌」著者・高田泰史氏はその著に記されている。

「肥後見聞雑記」は「かぶ木門」だとしているが、冠木門は下の写真のような大きな門柱の上部に大きな貫材が通るものをいうが、ここでは破風があり瓦ぶきである事から屋根付きの冠木門であることが判る。
「建築大辞典」をひも解いたら、そういうものも冠木門というらしい(勉強不足・・)
いずれにしても、そのような貴重な建築物が消え去る事が残念である。

また小西行長の家紋は「刺刀請の紋」だというが、どの様な形であろうか。まだ禅定寺に残されているのだろうか?
御存知の方がおられたらご教示賜りたい。

   岐阜城 織田信長居館跡 復元された冠木門 写真素材 [ 5325972 ...      

     岐阜城冠木門                 

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■石工・大工の日当は

2022-06-17 07:23:03 | 歴史

 先の熊本史談会では加糖神社の湯田名誉宮司の御話をお聞きした。
その折村々から駆り出された人夫の日当が、男米6合、女米5合というお話であった。
江戸期、扶持米取りの一人扶持が一日5合であったから、合点がいく数字である。
農閑期の仕事であったというから、苦役という話は当てはまらない。

 処で職人たちはどうであったろうか。「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」によると、善蔵は自分たちの大変な仕事の模様を紹介するとともに「石工どんのしごとはまあだきつかった」と語っている。
松野國策氏の「熊本城築城地搗音頭」という論考は、「えいとう節」や「陰陽節」の歌詞を採取されて紹介されている。
自らも地搗の経験がお有りだそうで、2007年熊本城築城400年の記念の年を前にして熊本地名学会などの主催で開催されたシンポジウム「加藤清正-築城と治水」の席でご披露に及ばれたらしい。
(このシンポジウムの成果は、同名の著書として今では加藤清正研究書籍となっている)
この「えいとう節」のなかに、大工や石工の日当が歌いこまれている。

   大工に小工に石工ドン *(アラ・エイトエイト 以下同)
    左官もきつかろ茶臼山 *

   石工の日傭は三匁 *
    大工左官は二匁半 *

   何処に隔てがあるかいな *
    お城普請のお手伝い *

   左官の仕事は恐ろしか *
    まかり違えばサデ落ちる *

この様に仕事の大変さが歌いこまれているが、一様に感じられるのが、この日本一の城普請に携わる嬉しさや清正の偉大さであろう。

さてその日当、石工は三匁、大工左官は二匁半とある。
この時期の金・銀の価値が判らないが、金1両(10万円)=銀60匁と仮定すると、銀1匁は1,666円であるから、
石工は約5,000円、大工左官は4,165円ということになる。

米1石(=金1両)=1,000合とすると、人夫の日当が5合/日ということは500円である事からすると、石工・大工左官は10倍~8倍の高級取だったことが判る。

「エイトウ節」が伝える熊本城築城のもようがありありとしている。

  

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