かっての禅定寺山門(Dr高田撮影)
禅定寺のかっての山門(上記写真)は平成六年に取り壊されてしまったが、禅定寺は我が家の曽祖父一家や、その岳父・上田久兵衛のお墓があり、この山門の下も随分通ったものである。
もう解き崩されてからでも随分経過しているが、この威容はもう見れない。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」によると、「摂津(小西行長)が上方で死んで宇土迄行って天守を解き或いは御門も解き・・・」とあるが、その御門がこの山門となったと思っていたが、どうも違うらしい。
この山門ではなく、宇土から運ばれた門はまったくべつのものであった思われる。
「肥後見聞雑記」には「同寺外のかぶ木門は宇土城に有し黒門也、宇土落城の節並河持来て建ると云、於于今其節之柱其外瓦等残れり、破風の瓦に小西氏が紋于今有り」とある。
そして、写真にある山門は江戸後期のものだと「平成肥後国誌」著者・高田泰史氏はその著に記されている。
「肥後見聞雑記」は「かぶ木門」だとしているが、冠木門は下の写真のような大きな門柱の上部に大きな貫材が通るものをいうが、ここでは破風があり瓦ぶきである事から屋根付きの冠木門であることが判る。
「建築大辞典」をひも解いたら、そういうものも冠木門というらしい(勉強不足・・)
いずれにしても、そのような貴重な建築物が消え去る事が残念である。
また小西行長の家紋は「刺刀請の紋」だというが、どの様な形であろうか。まだ禅定寺に残されているのだろうか?
御存知の方がおられたらご教示賜りたい。
岐阜城冠木門