津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■祝・熊本屋台村オープン

2022-06-03 07:12:45 | 熊本

 熊本のど真ん中に、屋台村が出現、今日がオープンである。

           熊本屋台村・公式サイト  肥後ジャーナル   熊本屋台村の場所

 某銀行の建物が長い間閉鎖されていた。その建物が壊され、さて何が建つのだろうかと思っていたら、意外や意外屋台村が出現して驚いてしまった。
この企画をした人はすごいと思う。コロナからの解放感が伺えるこの時期、時を得てさぞかしごった返すことであろう。
地元の人ならずとも、観光で訪れる人に取っても良いスポットが出来た。
かっては熊本にも屋台がちらほら見えた。しかし博多の様には発展せずほとんどが見られなくなってしまった。
市の中心部の一等地を使って、17軒の個性豊かな店舗が並ぶと云うのだから、傘寿じいさまも少々そそられてしまう。

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■御侍帳・家紋から考える(27)

2022-06-03 07:11:40 | 家紋

                                                 

                                                        新・肥後細川藩侍帳【た】の部

■高井仁兵衛は、(南東22-28)高井彦之允家の4代目、家紋は「左三つ巴紋」  

■竹内四郎左衛門は、(南東22-30)竹内清四郎家の5代目、家紋は「亀甲に剣片喰紋」  

■田代吉左衛門は、「細川藩家臣略歴」に名前が見えない。

                                                        新・肥後細川藩侍帳【そ】の部

■曽我三郎兵衛は、(南東24-1)曽我庄七郎家の 7代目・浅之助(養子 三郎兵衛)御鉄炮三拾挺副頭・柏原弥七左衛門副頭 平野組 五百五十石
 家紋は「丸に縦引両紋」  

■曽根権三郎は、(南東24-2)曽根充次郎家の8代目・彦弥太(権三郎)御番方松下清蔵組 剣術師役 二百石 
 家紋は「隅立角に丸紋」 

■園部弥次郎は、(南東23-3)園部何衛家の6代目、こちらは安喜家の分家筋、家紋は「違い丁子紋」
■園部寿八は、(南東23-4)園部安喜家の9代目。家紋は同上  

■宗 文平は、(南東24-5)宗 治右衛門家の4代目・傳之助(文平)。家紋は「半菊に一文字紋」  

               新・肥後細川藩侍帳【つ】の部

■津川一八は、斯波管領家を祖とする(南東25-1)津川平左衛門家の 9代目一八・辰敏 享和二年三月家督、千五百石、上着座、番頭 文化四年五月致仕
 家紋は「隅切り平角紋」

      

■続 弾右衛門は、【丹後以来】の(南東25-2)續 少介家の5代・亀之助(弾右衛門)か?(代々弾右衛門を名乗る)
 家紋は「黒地にもみじ紋」「隅立角に十文字紋」?  

■続 庄兵衛は、【丹後以来】の(南東25-7)続 才七郎家の6代・左源(庄兵衛)居合兵法組討師役 二百石当時百三十石
 同上分家であるが家紋は違い「丸に流鼓紋」    

■続 庄左衛門は、【丹後以来】の(南東25-19)続 三郎家の5代・庄左衛門(平左衛門)家紋は「丸に流鼓紋」 

■津田平助は、織田上総介信包 (織田信秀四男・信長弟)の長男で伊勢林藩主を改易となった織田民部少信重の子・三十郎を祖とする(南東25-3)津田平助家の 7代・平助(千石)文化四年四月~文化五年閏六月 留守居番頭、文化五年閏六月~文化十二年一月 小姓頭、文化十二年一月~文化五年七月(病死) 用人、
 家紋は織田家の「木瓜紋」及び、「二段鱗紋」  

■津田七左衛門は、津田與庵を祖とする織田一族、(南東25-14)津田克巳家の5代目・伊和太(七左衛門)  
 家紋は織田家の「木瓜紋」及び、「  」(不詳)  

■津田茂左衛門は、(南東25-13)津田太郎左衛門家の7代目・太次郎(茂左衛門)、家紋からすると織田一族か、遠祖太郎左衛門は「織田信長公仕河内國石川郡之内三千石余領地仕云々」とある。
 家紋は織田家の「木瓜紋」及び、「隅立黒字角に二切り抜き」???  

■津田半右衛門は、(南東25-18)津田山三郎家の 7代目・正三郎(半右衛門)で、幕末期江戸留守居役→参与→鎮撫使の参謀など勤め酒田県権知事などを務めた信弘の祖父に当たる。
 家紋は「亀甲に■■」織田系津田氏ではないと考えられる。  

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