津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

日本談義掲載の加藤家関係論文

2007-09-24 18:03:03 | memo
■加藤清正と福島正則 西堀重信 S31-11月号
■加藤清正公の銅像  村上望城 S50-9月号
■加藤清正、細川藩の治水事業 白川とその流域に就いて
           平野芳州 S38-4月号
■加藤家の内紛 諏訪に流された中川周防
           轟 一郎 S54-12月号
■加藤忠広と細川忠興の自筆書状 金関丈夫 S28-10
■加藤丹後守の跡を訪ねて 轟 一郎 S54-1月号
■加藤正吉の墓を沼田に訪ねて 轟 一郎 S53-3月
■加藤美作のこと   轟 一郎 S54-8月号
■清正異聞      壷井 潔 S41-11月号
■清正異聞について  住江金之 S42-3月号
■清正公銅像建設について 坂田国太郎 S52-6月号
■清正公と木馬    佐伯清太 S37-3月号
■清正公の浮き沈み  鈴木 喬 S54-8月号
■清正と熊本をめぐる疑問 池松文雄 S41-1月号
■清正と虎と片鎌槍  轟 一郎 S52-10月号
■楯岡甲斐と加藤忠広 今村義孝 S47-9月号
■朝鮮の加藤清正   岩崎彰代志 S14-4月号 S15-6月号
■南関城代加藤惣兵衛 轟 一郎 S54-10月
■配所の忠広     津田ゆき子 S29-4月号
■肥後藩主加藤忠広の改易 池田 勝 S53-3月号
■阿蘇南郷に玉目丹波守の跡を訪ねて
            轟 一郎 S54-3月号
■会津に玉目丹波守の跡を訪ねて
             轟 一郎 S54-4月号
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肥後加藤家に関する諸資料

2007-09-23 19:01:42 | memo
■秉燭雑録(上妻文庫)
97、諸家書簡集(加藤清正公朝鮮陣中より之書簡・他)
99、加藤公分限帳
118、謡曲・加藤清正
130、清正松雲問答 清正公宇土攻之時制札 清正公挽詞

■盤桓随筆
巻10、加藤清正公御歌(瀬戸雑誌)
巻42、加藤清正の手負いを討取らざりし御意
   豊臣秀頼公熊本城へ御居住の御間の事

■吹寄与勢
■雑撰録
巻7、加藤清正公へ柳原式部大輔紙面
   加藤清正公紙面
巻20、徳川家康公加藤清正公へ三ヶ条の御意見被仰候事
巻34、加藤清正公御心入
巻69、清正公宇土城攻の時制札
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むしゴム

2007-09-23 11:19:24 | 徒然
 図書館に出かけようとして自転車にまたがると、どうも後輪がおかしい。パンクではなさそうだが空気がすぐ抜ける。「むしゴム」だろうと思いついた。空気を入れる部分にある金具に、逆流を止める為につけるちっちゃなゴムである。自転車屋さんが何処にあるのか分からないし困ってしまった。いつか妻が四五個入った「むしゴム」を買ってきた事があった。それらしきところを探し回るがアウト。金具を観察すると「むしゴム」が二つに切れている。ゴムが抜け落ちないようこぶが作られていて、そこに引っ掛けられているのだが、そこで破断している。こぶの部分の切れ端を撤去して、残りのゴムをこぶにかぶせるように移動して、空気を入れてみた。爺さんやるじゃない・・・大成功。

 我が家の玄関先に赤い彼岸花が咲いている。今日はお彼岸・秋分の日だというのに、熊本は真夏日がずっと続いている。肥満防止のための図書館まで30分の自転車通いだが・・暑い・・・。
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旧主を考える-13 前田利家

2007-09-23 09:10:46 | 歴史
 前田利家は豊臣秀吉とは盟友であり、五大老の一人として後事を託されたが、跡を追うように死去。徳川の天下取りに影響を与えた。細川忠興嫡男忠隆室が利家の愛娘であるが、その故を以って離婚させられた。(ガラシャ夫人死去の際の逃亡も原因とはされるが・・・) 
 細川家家臣平野氏は、家紋「三つ鱗」が示すように北条家の後胤である。幕末の横井小楠も祖を同じくしている。前田利家に仕えたのが確かなのは、弥次右衛門永知である。平野氏には細川幽齋の生母清原氏の血が多く入っている。弥次右衛門は清原業賢の子とされ、忠利代召し出されて5,000石。ルーツを同じくする平野氏が五家明治に至った。わが「肥後細川家侍帳」に於いては、些かの食い違いが認められ精査が必要だと思っている。
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旧主を考える-12 宇喜田秀家

2007-09-22 11:09:03 | 歴史
 悲劇の宰相秀家は元亀三年(1572)備前岡山藩主直家の二男として生まれた。病没のした父の跡をうけ10歳で家督、天正14年(1586)豊臣秀吉養女豪姫(前田利家娘)と結婚。文禄の役などで戦功、秀吉五大老の一人となる。慶長五年(1600)伏見城攻め総大将、関が原戦においては西軍の主力として戦うも壊滅。薩摩を頼って落ち延びたが、島津氏により家康に引き渡された。前田・島津の懇請により死罪は免れ八丈島に流罪、約50年の星霜をこの地で重ね享年83歳で死去した。

 細川家家臣寺尾左助(1,500石)は慶長七年細川家に仕官したが、代々の宇喜田家臣(3,000石)であった。左助の子等が宮本武蔵に師事し、兄・孫之允が「五輪の書」「独行行」を、弟・求馬介が「兵法三十五箇条」を伝授された。求馬介の三人の子供、藤次・弁助(野田派二天一流)・郷右衛門(山東流)がそれぞれ二天一流の祖となり後世に伝えた。
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並行読書中

2007-09-22 09:12:09 | 書籍・読書
1、出久根達郎 「まかふしぎ・猫の犬」
   司馬遼太郎の「竜馬が行く」に登場する人の数、想像できますか。
   なんと1,149人だそうですよ。出久根氏が数えました。そんな話色々。
1、高田 宏  「還暦後」
   敬愛する高田氏のエッセー。私も還暦はとうに過ぎましたが、べつに
   そのことを意識して居る訳ではない。氏ご自身の生き様に共鳴すると
   ころが多いのだ。
その中に、高田氏が宮本常一氏に依頼したという、原稿用紙五枚のす
   ばらしいエッセーがあることを紹介されている。読んでみたいと猛烈
   に思っている。
1、佐方 信  「西郷隆盛伝説」
   氏は庄内のご出身、幕末薩摩藩邸焼き討ちをした庄内藩だが、西郷隆
   盛は何故か庄内藩を擁護した。そのことで庄内では西郷を敬う風土が
   あるようだ。そんな視点から見た面白い切り口でgood。
蛇足 10/13「熊本城と西南戦争・シンポジウム」が開かれるが、出席者
   のお一人に佐高氏。多分話はこの著作から出ること間違いなし。
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旧主を考える-11 小早川秀秋(金吾中納言)

2007-09-21 16:39:55 | 歴史
 豊臣秀吉正室高台院の実兄・木下家定の子(五男)。幼くして秀吉の養子となり、9歳にて丹波亀山10万石、11歳で従二位・権中納言、二年後秀吉の命により小早川景勝養子、翌年豊臣秀次事件に連座領地没収、同年養父景勝死去によりその領地の一部を継承し、筑前名島城主(30万7000石)となった。石田三成により慶長の役や、伏見城攻めの功績が評価されず、関が原戦においては秀秋の裏切りにより東軍の圧勝となる。後岡山藩55万石の太守となるも僅か二年で病没、21歳であった。
■西川与助 小牧の戦いに於いて活躍し秀吉の感状を得ている。また忠興よりの加増が直ぐ行われた。後細川家を離れ金吾中納言に仕え、豊前に於いて帰参した。同名の与助の代、陽明学徒の故を以って追放され一時期不遇な時代があった。
■坂崎忠三郎 池田勝入--蒲生氏郷に仕えた後、小早川秀秋備頭を務め、秀秋没後牢人。弟・勝定、養嗣子成政の子成定も同様の経過をたどって忠興に仕えた。
■和田(高見)少五郎 元々は大納言秀長の小姓であったが、貰い受け忠隆(忠興嫡男)に近侍し、後筑前中納言(秀秋)臣となる。秀秋死去後浪人、慶長十三年帰参した。
阿部一族討手を仰せ付けられた高見権右衛門は孫である。
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旧主を考える-10 黒田長政

2007-09-20 22:53:05 | 歴史
 黒田長政については、特段の説明も必要なかろう。 
細川家家臣弓削家の祖、弓削左衛門尉清重は藩主長政の岳父である。初代清左衛門は蕃頭となって2,000石、後長政と不和になり豊前国に移居、元和五年三齋公に仕えた。

 六代・清左衛門は山本文右衛門の弟・一學、五代清右衛門には実子が有ったが一學の才能に着目し家運隆盛ならしめんと養嗣子とする。父子の功名利達の心を藩庁が採用することなくその想いは蹉跌する。一學(清左衛門)不本心体につき、一類より御知行家屋敷差し上げを奉願し、御番方仰せ付けられる。その後も国老に対し堀平太左衛門を讒訴するなど頑迷な行動を労した。

 上記の事を書くのには些かの勇気を要した。実は中学時代の恩師が弓削先生。弓削家は三流あって、清左衛門家とは限らないのだけれど・・・・(どうもすみません)

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飯河豊前、長岡肥後父子誅伐に関して

2007-09-20 21:03:52 | 歴史
 慶長十一年七月二十七日の飯岡豊前・長岡肥後誅伐事件はその原因は定かではないが、細川興秋に係わりがあることは間違いなかろう。肥後等は「悪逆数箇条」が有ったなどと伝えられるが真相は闇の中である。この事件をよく理解する為に沼田家の系図を元に相関図を造った。約四時間ほどを費やしてしまった。

 豊前の元には日頃無音の女婿・麻生吉右衛門が駆けつけた。二男岩徳らと共々戦い、仕手河喜多石見の手により討ち果たされる。石見は、豊前の元にあった幼い家臣により不幸の死を遂げる。(この石見はガラシャ夫人に殉死した石見の息である)
 一方肥後の元には数年不仲であった室が、死を共にすべく帰ってきた。室は米田是政の長女で、二人の間の子は未だ五歳の女子である。忠興は是政の未亡人雲仙院を通じ、肥後の室(是政女)の説得に当たらせた。これに応じない為、弟貞政を再度当たらせるがこれにも応ぜず、肥後と共に死す事となる。肥後を恩人とする検使益田蔵人がその死に立ち会った。

 豊前(宗祐)の父飯河山城守信堅は沼田光兼の女婿、米田是政の父壱岐守求政室(後妻)は光兼女の娘(細川幽齋養女)である。幽齋室麝香も又光兼のむすめであり、細川忠興、飯河豊前、米田求政は沼田家の血を以って繋がる従兄弟である。
 飯河肥後の義弟、米田貞政と嫡子・是長は翌年忠興の元を離れた。この事件がその因であるとするものも有る。細川家の歴史に残る消し難い汚点ともいえる。
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日本談義から

2007-09-20 12:05:21 | memo
昭和26年・29年日本談義掲載記事からコピーを採る 
 ■清正と虎と片鎌槍 轟一郎氏(有明高専校長)
  加藤清正の虎退治におけるその頭骨は、清正の孫顕珠院(忠弘息女)
  の嫁ぎ先・阿部家に伝えられてきたその経緯など
 ■小笠原少齋の墓について 宇野廉太郎氏
  昭和26年10月に発見されたという毎日新聞記事についての論評
 ■立岡堤の傳承 富樫卯三郎氏
  加藤清正の築造と伝えられる、宇土立岡堤についての研究
 ■島原の役に於ける・山本五左衛門覺書 齋藤俊三氏
  松井家家臣山本氏の島原の役における働きについて
 ■美少年の切腹 宇野廉太郎氏
  過日ブログ(7/30・あっぱれ14歳)に書いた、十四歳「横田九郎兵衛」の
  見事な切腹についての一連の検証
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徳富蘆花「灰燼」 再UP

2007-09-20 10:37:39 | 徒然
 西南の役に西郷軍に味方して負け戦となり、我が家に逃げ帰った名家の次男坊が、家名を重んじる家族により死を強要される話である。

 蘆花は、熊本郊外の豪農弥富家で実際にあった話を題材にして書いている。
私たちは「熊本史談会」において、弥富家の「日光道中記」を勉強し、お金持ちならではの道中話を楽しんだが、後にこの様な不幸が訪れていたのである。「神風連の挙」に於いても、残された家族の悲しい話を随分多く知らされた。
明治という時代は、今はもう顧みられる事もないこの様な悲劇の上にある。
お読みいただければ幸いである。
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徳富蘆花「灰燼」

2007-09-19 11:38:40 | 書籍・読書
 熊本日日新聞は、徳富蘆花の「灰燼」について特集を組んでいた。(妻がゴミだし日に処分してしまって・・・詳細不明)当サイトにおいては、この「灰燼」全文をご紹介していたのだが、二年程前誤操作で1/5ほどを消去してしまい、サイトから削除した。今にして思えば残念の極みで、忙しさにかまけてそのままの状態が続いている。青空文庫で紹介されればこちらも有り難いのだが、予定稿に入っていない。「それじゃー修復に取り掛かろうか」と考え始めている。一日仕事だなー。
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9/18 熊本日日新聞第7面

2007-09-18 14:07:35 | 新聞
 以下の記事をそのまま転載する

 「永青文庫の魅力を探る」
     東京・京都研修も計画 来月から5回講座

 「熊本城400年と熊本ルネッサンス」県民運動本部(小堀富夫会長)は、十月から来年三月まで五回に渡り「永青文庫の魅力を探る講座」を開く。肥後細川家に伝わる美術工芸品を収めた同文庫の常設展示が来春から県立美術館で始まるのに合せた企画。
毎回、歴史や美術の専門家らを講師に迎えて細川家の歴史と細川藩政などについて学ぶほか、熊本市内を巡りながら同美術館寄託の美術品、藩校時習館の教材などの見学も行う。
また、細川家が吉良上野介邸に討ち入った赤穂浪士を江戸藩邸で預かったのにちなみ、討ち入りがあった12月14日から15日に掛けて東京研修旅行を計画。大石内蔵助らが切腹した細川家下屋敷跡や永青文庫などを見学する。
来年二月には建仁寺など細川家ゆかりの史跡を巡る京都研修も計画中。
講座の参加料は五百円(同本部会員は無料)問い合わせは同本部事務局(096-928-5638)
講座の日程と会場、内容、講師は次の通り(各回とも午後一時半スタート、二時間程度)
△10月7日=ぴぷれす熊本会館「細川家・美と戦いの700年」(吉丸良治・県文化協会副会長ほか)
△11月11日=熊本県立美術館本館ほか「県立美術館と熊本博物館への美術工芸」(美術館・博物館学芸員)
△12月2日=県立図書館ほか「古今伝授の間と藩校時習館教材見学」(村山敬七・県立図書館長ほか)
△1月27日=県立美術館本館「全国に先駆けた熊本の刑法草書」(高塩博・国学院大教授)
△3月23日=県立美術館本館「永青文庫常設展-その魅力を探る」(美術館学芸員)
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敬老感謝の日・爺様逃亡

2007-09-18 13:05:34 | 徒然
 昨晩9時過ぎ玄関のチャイムが鳴った。「今ごろ誰?」と妻が出て行ったが、しばらくすると外から呼ぶ声が聞える。「ゴエモンが逃げたよー」近所の方が知らせてくれたらしい。あわててツッカケを履いて飛び出すと、先お隣の駐車場に三四人の人影、そして妻に抱かれたゴエモンがいた。お騒がせした事をお詫びして退去。おん歳十八歳五ヶ月の我が家の愛すべき老犬は、視力も嗅覚・聴覚も衰えておまけに「足萎え」の状態で、この夏の暑さを乗りきる事が出来るかと心配していた。少し涼しくなってきた近頃は、家の周囲をノコノコ歩いてはいたのだが・・・。妻が作ったバリケードの隙間を抜け出したらしい。昔だったら一日二日帰ってこないことが時折あったが、さすがに爺様逃亡も数十メートルで確保と相成った。
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最近の細川家

2007-09-17 16:19:32 | 熊本
 昨日16日の熊本日日新聞に、「熊本城築城400年記念・細川護煕数寄の世界と細川ガラシャ展」の新聞一面を使った大きな広告がでた。9/19~9/25まで地元鶴屋百貨店で開催される。入場料無料、元知事さんのサービス精神がうれしい。9/22は午前午後のニ回にわたり、作品集「晴耕雨読」購入者にたいしてサイン会もあるらしい。さて何時出かけようかと思案している。
 月刊誌「藝術新潮」は10月号あたりで、細川家所蔵品に関しての記事を掲載するらしい。あることで当方に問い合わせをいただいたが、お役に立てなかった。9/25日発売日だが本屋さんを覗いて見なければ成らない。
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