津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

南条氏のこと(番外)  鍋・・伊千・・吟

2011-06-17 08:26:15 | 歴史

 

  忠興二男興秋の遺児鍋姫について、記録を追いかけてみる。「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」によると、「無役ニ出し被置知行」という項に「五百石なべ  香雲院 忠興公御二男也長岡千五郎興秋女 南條大膳元信妻(大膳后改左衛門) 廟所禅祥寺」と紹介されている。細川家家記によると「錩」と表記されている。元禄二年(1689)77歳で亡くなったとされているから、生まれは慶長17年(1613)頃であろうか。父・興秋は元和四年(1618)に自刃しているから、わずか六歳で父を亡くした。生母は氏家元政女で興秋の死後すぐに飛鳥井中納言持信に再嫁しているから、乳母によって育てられたのだろう。「日帳」(福岡県史・近世資料編-細川小倉藩)によると、寛永三年(1626)七月「鍋」の結婚話が登場する。「おなへ様御祝儀ノ御使者として、岡六左衛門被罷下候」として御乳人(おひかし殿)に「大塚長庵よりの状壱つ」とある。お鍋様は若干十四歳である。壻殿は南条元信、旧豊臣秀頼の臣でその後小西行長→加藤忠広に仕えた何条元宅の孫である。同じ年の十一月十六日、細川忠利はその南条元信邸に出かけている。「南条元信邸へ被成御成候、終日被成御慰候事」と記録されている。無念の最期を遂げた兄・興秋の遺児の門出を心から祝っての事であろう。元信は天和三年(1684)死去とされるから、長い夫婦生活が続いている。寛永六年(1629-17歳)六月には父親・興秋の下で働いた清介なる人を召抱えたいと願い出たりしている。そうかと思うと、四月十六日には「いちご」が食べたいと奉行に願い出たりしている。ひょっとすると「つわり」ではなかったのか、同年九月十日「鳥うたい候て七つ時分ニ輙御祝被成候・・・御息女之由申候也」として女の子を出産している。家老米田是長に嫁いだ伊千のことであろう。その結婚は寛永二十年(1643)であり翌年吟が誕生する。二年後わずか三歳の吟を残して亡くなっている。南条家は光尚の末弟・勝千代が三歳で養子となって跡を継ぎ、家老職などを務めた。元知道固、綱利時代に陽明学徒追放事件が勃発、其の処分について諫言して永蟄居となった。室が家老米田是長女(吟)で有った為、嫡子長岡勝千代は命により米田家(是長)の養子となった。これにより南条家は絶家する事となる。
 細川忠興---+---忠隆
         |               米田是長======是庸・・・・→家老米田家
         +---興秋---          ∥----      ↑
         |        ∥------+---伊千   ∥------是庸
         |     南条元信   |         ∥
         |              +=====元知
         |                        ↑
         |        +----------------勝千代
         |        |     
         +---忠利---+-----光尚--------綱利
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江戸の大名屋敷を歩く

2011-06-16 08:38:53 | 書籍・読書
     江戸の大名屋敷を歩く<ヴィジュアル版>(祥伝社新書240)
 
                   祥伝社

出版社からのコメント

江戸の街には、実に1000もの大名屋敷があったといわれています。その多くは明治維新を機に役割を終え、その後旧藩主邸となっていたものも、関東大震災や第2次世界大戦による破壊や社会の変化で、ほとんどが姿を消したかに見えます。  しかし、首都圏に住んでいて、なじみ深いあの建物、この施設、観光スポット、その多くが大名屋敷にルーツを持つものであることが、この本を読んでいただくことで明らかになると思います。現代東京の繁栄に欠かせない土地が数多くあり、そして大名屋敷の痕跡が残っている場所も非常に多いことがわかります。意外な場所の石垣や屋敷の遺構に驚かれることでしょう。  本書では、13の章にわたってそんな数々の場所をご案内します。詳細な地図をつて、実際に歩いて回れるよう、配慮しました。すべて著者が歩いて確認した場所ばかりですが、江戸の大名屋敷全部をご案内するのは困難ですから、探訪の範囲は山手線内と下町地区に限りました。
第一刷では一二間違いがあったみたいですから、第二刷を購入されることをお勧めします。

  著者:黒田諒氏のブログも楽しいですよ・・・・
        http://ameblo.jp/edojyo/archive1-201106.html

 

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南條氏のこと--(5) 南条元知

2011-06-16 08:18:32 | 旦夕覺書

南条元信(大膳-以心)の養嗣子・元知は細川忠利の四男である。井上正氏の論考「南条元宅とその一族」にある「南条系圖」にある「細川忠利二男」は明らかな間違いである。寛永十八年(1641)二月廿七日の生まれ、寛永二十年(1643)には大膳の養嗣子となった。(三歳)大膳とその室・鍋(細川興秋・女)の間には女子(伊千)があるが、男子がなかったためであろう。伊千は米田是長に嫁ぎ寛永二十年娘・吟を生み、正保二年(1646)死去した。承応三年(1654)元知(14歳)は養母の孫娘である吟(11歳)と結婚、明暦三年(1657-17歳)に元服する。万治二年(1659-19歳)500石拝領、万治三年養父・元信の隠居に伴い跡式相続、寛文五年(1665-25歳)で家老になった。
そして寛文九年十月(1669-29歳)で思いがけない事件に遭遇することとなる。

いわゆる「陽明学徒追放事件」であるが、高野和人氏の著「肥後の書家・陽明学者 北嶋雪山の生涯」に詳しい。幕府は朱子学をして官学と定めてきた。寛文七年熊本には幕府巡見使が入り、肥後の陽明学は比較的高禄の士の信奉するところが報告されたらしい。そして寛文九年藩主綱利の帰国早々陽明学が禁じられることと成った。そして御小姓頭を勤める二千八百余石を拝領する朝山次郎左衛門や、北嶋雪山など十九名にお隙が言い渡されたのである。史料はその理由について何ら述べていない。

幕府の圧力に対し藩内でも是非の論議があり、藩主綱利にとっては叔父に当る長岡左近(南条元知)が諫言したとされる。十月六日の「御奉行所日帳」には「長岡左近殿御儀今日御前にて病気に御成候事」とある。八日には「左近殿乱心に付御知行上り」となる。侍帳の「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」には、寛文九年十月十一日 「煩ニ而知行被差上候 五千石 長岡左近殿」とある。十月廿六日隠居料二千俵を賜り竹部村に蟄居した。十一月五日剃髪して道固と称する。元禄十年(1697)に至り、藩主綱利から頭巾・小袖などが届けられた。この時期28年に及ぶ蟄居が解かれたとされる。
なんともお粗末な綱利の仕様である。道固はあたらの人生を棒にふった。元禄十六年(1703)死去す。元信-吟夫妻の嫡子是庸は延宝五年(1677)命により米田是長の養子(外祖父養子)となり、家老米田家を継ぐことになる。これにより南条家は絶家することとなった。

南条家及び細川興秋家の血は米田家により継承されていく。

次回は興秋女・鍋--伊千--吟の三代に亘る女性にふれたい。

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南条氏のこと(番外) 信長公記から

2011-06-15 09:42:26 | 歴史

         伯耆国南条表発向の事
十月廿六日、伯耆国に南条勘兵衛・小鴨左衛門尉兄弟両人、御身方として居城候ところ、吉川罷り出て南条表取り巻くの由注進候 眼前に攻め殺させ候ては、都鄙の口無念の由候て、羽柴筑前守後巻に罷り立ち東西の膚を合せ一戦に及ぶべき行にて
十月廿六日、先勢を遣はし
十月廿八日、羽柴筑前守秀吉出陣 因幡・伯耆の境目に山中鹿之助弟・亀井新十郎御身方として居城候 是まで羽柴筑前守参陣 爰より伯耆へは山中谷合にて節所と云ふ事大方ならず 即時に南条表に相働き羽衣石と云ふ城南条勘兵衛御身方として相抱へ候 同じく舎兄小鴨左衛門尉岩倉と云ふ所に居城両人御忠節の筋目候ところ、吉川罷り出て右の両城へ着き向ひ卅町ばかり隔て馬之山と云ふ所に張陣なり
                     (中略)
是れは伯耆表のこと 羽柴筑前守秀吉羽衣石近所に七ケ日在陣候て国中手遣はし候て兵粮取り集め 蜂須賀小六・木下平大夫両人押への手として馬之山へ差し向け 羽衣山・岩倉両城へ取り続き 人数段々に備へおき兵粮・玉薬丈夫に入れおき、来春相働くべき旨申し合わせ
十一月八日、播州姫路に至りて帰陣 吉川元春も曲なく人数引き取り候ひキ
         
                    太田牛一「信長公記」町田本から抜粋
           http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_15.pdf

現代語訳すると・・・   ちなみに原文・訳文とも小鴨元清(元宅)は兄となっているが弟である

伯耆には織田方の南条元続・小鴨元清の兄弟二人が居城する城があった。(天正九年)十月廿六日、吉川元春が侵攻して南条の城を包囲したとの報告があった。羽柴秀吉は、「南条を見殺しにしたら世間のもの笑いとなり、無念である」と言って、吉川勢を後方から攻め、東西の軍勢が互いに接して一線に及ぼうと決心した。
十月廿六日、まず先発隊を出陣させ、十月廿八日羽柴秀吉が出陣した。因幡国内、伯耆との国境近くに、山中幸盛の弟亀井茲矩が織田方として居城していた。羽柴秀吉はここまで進軍した。ここから伯耆へは山と谷続きで大変な難所であったが、南条の城をめざして急行した。南条元続は羽衣石という城を首尾していた。同じく南条の兄小鴨元清は、岩倉という所に居城していた。二人が織田方として態度を崩さずにいたので、吉川元春が進撃し、右の両城を攻撃しようとして、羽衣石から三十町ほど隔てた馬之山という所に陣を張ったのである。
                     (中略)
さて伯耆では、羽柴秀吉は羽衣石の付近に七日間在陣して、国中に兵を出動させ、兵糧を取集めた。蜂須賀正勝・木下平大夫の二人を吉川勢への備えとして馬之山に対峙させ、秀吉自身は羽衣石・岩倉両城に連絡して、軍勢と兵糧・爆弾を充分に補給した。その上で、来春吉川勢に決戦を挑もうと申し合わせた。
十一月八日、羽柴秀吉は播磨の姫路に帰陣した。吉川元春もなすところなく軍勢を引き揚げた。

                     新人物往来社 現代語訳(中川太古役)「信長公記」より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正10年(1582年)9月、毛利氏の猛攻を受けて羽衣石城は落城するが、天正12年(1584年)の羽柴氏と毛利氏の和睦により、八橋川以東の伯耆東3郡6万(一説に4万石)の領有が認められ、羽衣石城に復帰した。 (ウイキペディア-南条元続項より)
                                 

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南條氏のこと--(4) 南条以心事件

2011-06-15 08:09:28 | 旦夕覺書

南条元信は隠居後以心(意心とも)と号した。晩年以心の身に不可思議な事件が起こる。真実は何なのか窺い知れない。名家の胤の故をもって、細川興秋女・鍋を室に迎えている。お鍋さまの心労は如何ばかりであったろうかと察するにあまりある。種々史料から事件に迫る。

     公儀先御代御窺等之覚書     (旧事集覧-切支丹之事)

寛文九年南条大膳事隠居被仰付名を以心と改、在郷ニ罷有候処乱気に成、道路之辻ニ而諸事放埓成行跡多ニ付而、左近(養子・元知)知行所江押込置申候 其後気色少能様子ニ付心侭に仕候処、切支丹宗門之者有之之由、長崎御奉行松平甚三郎様江書付を以て被申上、其趣従甚三郎様太守様(綱利)江被仰越、以心手前被遂御穿鑿候得共、皆以不実之由ニ付其段松野亀右衛門・佐藤安太夫を以甚三郎様江委細被仰達候 不実之儀ニ候へとも宗門之事儀ニ候間、御序以第右之様子於江戸北條安房守様・保田若狭守様へ甚三郎様より可被仰進之旨ニ付而、太守様よりも被仰達候処、大法之儀候間以心長崎へ被召寄甚三郎様被遂御穿鑿候様ニと御老中より申来ニ付而、以心儀早速長崎へ被指渡候之処、御穿鑿之上弥不実成儀故、如此方へ被指帰、其後御城内ニ被召籠置候事

上記のように元信は放埓な行跡があり、切支丹ではないかと届けるものがあり長崎奉行所で穿鑿が行われた。寛文九年十二月十五日に長崎に護送し、穿鑿は翌年三月迄かヽり「不実」となされ三月二日熊本へ帰った。しかしながらなぜか城内の質屋(牢)に一生留め置かれたというのである。不可思議な事件であるが、その間の種々の動きが「御奉行所日記」などに記されている。

  ■寛文九年十一月廿六日
一、御家老中御同座ニ而大蔵殿仰渡候ハ、南条以心儀竹ノ丸しちやへ御入被成候間、繕なと有之候ハヽ
  丈夫ニ可申付候 以心儀松野亀右衛門所ニ居被申候今晩中ニ竹ノ丸へ被遣候様繕等急度可申付
  候 出来候ハヽ大蔵殿へ御左右申候被仰渡候事
  意心上番ニ歩之御使番衆六人申付両人宛夜白かけさる様に念を入相詰の可申由申渡候へと被仰
  渡候事    下番ニハ足軽可申付由
  意心在所ニ被居候家頼のもの共今晩被召寄候 御鉄炮頭衆前川彦左衛門と栖本又七被仰付候
  家頼之者共からめ不申其侭召連被参筈ニ被仰渡候 両人衆ニ足軽を付被遣筈ニ候間可申付候
  家来之もの十人可有之哉之由候間足軽廿人程申付可然之由被仰渡候事
一、意心被給物之儀念を入可申付被仰渡候事
  ■   同  廿七日
一、服部武兵衛儀只今長崎之御使ニ被遣候間■びニ遣可申由并舟之儀川尻へ早々可申遣通御家老
  中被仰渡候ニ付右之趣御奉行所へ申遣候事
一、意心家頼内田勘右衛門を服部武兵衛ニ付ヶ只今長崎へ被遣候間船中賄之儀可致沙汰由御家老
  中被仰渡候ニ付御奉行所へ右之様子申遣候 勘右衛門ニも右之様子被申含候ニと申遣候事
一、意心家頼何も不残在所/\へ被遣可申御用之時ハ可被召寄候 むさとしたる儀を不申様ニ可申付
  由御家老中被仰付候間松野亀右衛門・佐藤安太夫被申候事 其後大蔵殿御帰り道より使を被遣右
  之趣被仰聞く候事
一、松野亀右衛門・佐藤安太夫此両人明朝長崎へ御使ニ被遣候 御いそぎの儀ニ而候間御舟之儀今
  晩可申遣由助右衛門殿被仰候ニ付御奉行所へ申遣候事
  ■   閏十月朔日
一、南条以心儀ニ付長崎へ為御使者松野亀右衛門・佐藤安太夫今夜五ツ過ニ爰元被差立候事
           覚
  ■   同  十八日
一、南条意心銀子たくわへ有之借付被置候様ニ御家老中被成聞候 是はかり取ニハ仕らせ間敷事ニ候
  間何とぞ吟味仕 借り先知候ハヽ其沙汰仕取立おなへ様相渡可然思召候 次郎右衛門以心在宅所へ
  参候時銀子など有之様子ニてハ無之候哉と御尋ニ付草籠の内ニ銀子入候袋弐ッ有之を以心家来
  と御鉄炮之小頭相対を仕置候由申候 此外ニハ銀子有之様成荷物無之由申候ヘハ何を吟味仕候ハヽ
  借分之銀子知可申哉と被仰ニ付 以心今迄召仕被申候家来を召寄承候ハヽ大方知可申候 借付之日
  記なとも有所知可申由候ヘハ其通沙汰可仕候 つかへ申事有之候ハヽ監物殿へ御尋可申候 御月番
  被成御聞様子ニ候ハヽ助右衛門殿へ申候へと被仰候事
  ■  同   廿五日
一、南条以心借置被申候銀子之書付御家老中ニ懸御目候処被取立候而おなへ様へ可相渡由被仰候
一、同人家来三人給金之書付右同前ニ懸御目候処ニおなへ様へ申入差図次第ニ沙汰可仕由被仰候事
  ■  同 十二月十五日
一、南条以心儀明日長崎へ被遣候間籠乗物申付上ニ者ほそ引のあみを懸、今晩中ニ出来候様ニ可申
  付候 御使者ニハ松野亀右衛門・佐藤安太夫遣候間御舟之儀をも可申付由 助右衛門殿被仰付則御
  城御奉行所遣候事 尤被付遣足軽以下も沙汰仕候へと申遣候事
一、南条以心へ松野亀右衛門・佐藤安太夫只今被遣候間方当御門被通候様ニ可有御沙汰候
一、同人ニ被付置候歩之御使番之内両人長崎へ付被遣筈候間可被仰渡候事并足軽十人付被遣候事
一、同人乗物之儀先刻籠乗物と申入候へとも只今又助右衛門殿被仰候ハ常乗物丈夫成を少々繕被
  申付上ニあみを懸可然由ニ候間左様心得可有候事
一、乗物、御舟家形之内ニハ入申間敷候間家形無之御舟か又ハ御馬舟なと可然由亀右衛門・安太夫
  被申候間其御沙汰候へと申遣候 右之分御城御奉行所へ申遣候事
一、亀右衛門・安太夫上下付ハ先日のことくニ而候間先日之通御舟二艘可申付由被申候事
一、御いしや水野了元被遣候 此段助右衛門殿より被仰遣候間被仰其意候へと御奉行所へ申遣候事
一、以心ニ被付遣歩御使番衆両人と最前申入候へとも只今亀右衛門・安太夫被帰御家老中へ被申上
  候ハ四人被付置可然由ニ候 両人衆如被申候四人付可遣由御家老中被仰候間其通ニ被仰渡候へ
  と御奉行所へ申遣候事
一、以心衣類見苦敷由候間小袖三道服壱ッ仕立候而可遣由御家老中被仰候事
一、亀右衛門・安太夫舟ニ小早壱艘付可遣由御家老中被仰付御奉行所へ申遣候事
  ■  同   十二月十六日
一、南条以心儀今日長崎へ被遣候ニ付松野亀右衛門・佐藤安太夫并医師永野了元歩之御使番松木
  又兵衛・坂本長兵衛・奥村助太夫・成瀬彦右衛門・御鉄炮衆十壱人・内小頭壱人・御長柄衆弐人被
  付置候 舟中先様賄のため御料理人右田八右衛門ハ荒仕子弐人被付遣候事
  ■  寛文十年二月廿八日
一、南条以心迎舟之儀最前渡海之通被沙汰仕 早々差越候様ニと被仰出由 大蔵殿被仰渡候間被得其
  意急度河尻へ可被仰遣候 
  次ニ長崎より参候書状共被差越致一覧不残返進申候間左様御心得候へと御奉行所へ申遣候事
  ■  同    三月三日
一、御状令拝見候 然者以心儀無別条夜前更ニて河尻着船候由就夫以後被召置候所最前之所にて候
  哉御聞有度由被仰越候 最前之所ニ被召置筈候間左様御心得竹ノ丸御門より入被申候様ニ可有御
  沙汰候 御紙面之通則御家老中へ相達申候 恐々謹言
        三月三日                       奉行中
           松野亀右衛門殿
           佐藤安太夫殿
                   御報
一、松野亀右衛門・佐藤安太夫以心致同道河尻迄差付候由にて書状被差越候 御家老中へ遂(ママ)御
  目候処ニ達御耳可申由被仰付候 右之書状柏原新左衛門ニ相渡被達御耳候様ニ申候事
一、以心御番ニ最前被付置候人数只今の人数書付候而後程助右衛門殿やとへ遣可申旨被仰候事
一、松野亀右衛門・佐藤安太夫・永野了元御花畑御家老中間へ差出候事
一、以心方へ御なへさま・左近殿ト音信なと有之候ハヽ相改候て届可申候 其分わきより之音信御取次
  申間敷候 何も御相談ニ而右之通ニ御極候由助右衛門殿被仰渡候事
一、不断たはこを数寄ニ而請被申候 番衆ニ申渡置きせるさをを長くにいたしつはをかけかこいの外に
  火を置番衆付居候而内ニきせるを引取被申候ハがんくび落申様に拵のミ被申様ニ可仕候 番衆ニ火
  の用心堅申付右之通ニ可仕旨御三人ニ而被仰渡候事
  ■  同    十八日
  南条以心被居候所御本丸ニ往来仕候もの見こミ申由以心悔之由御家老中へ相達候ヘハ佐渡殿・
  監物殿・助右衛門殿御究ニ而被仰候ハわきへ被遣事ハ不成候間御本丸内別ニ被召置可然所有之
  ハ召置可申候 無之候ハヽ出入のもの見こミ不申様ニ可仕由被仰付候
一、南条以心被召置候処御繕出来申候如何うつし可申哉又以心被申候ハ髪をふりかふり居申候而目
  まわし又頭痛も仕候間つみ申度由爪長く迷惑申候間取申度よし 被申通助右衛門殿へ申達候ヘハ
  則柏原新左衛門を以て被得御諚候ヘハ勝手次第うつし可申候 髪はつミ被成候ともそり候とも望之
  通爪も取せ可申何も番之もの付居候而の儀ニて可仕旨被仰出候由助右衛門殿被仰候事
一、柏原新左衛門被申候ハ先日皆共申候以心衣類之儀達御耳候ヘハ時々の衣類さむくあつく無之様
  ニ沙汰仕遣可申由被仰出通被申渡候 同時ニ助右衛門殿被仰候ハはな紙以下迄おなへ様へ申遣
  事ニ而ハ有之間敷候間右之仰出の上ハケ様之儀も奉行所より沙汰仕へきよし被仰候事

何が原因で一生を質屋暮らしを強制させられたのか、今ひとつはっきりしない。
以心(元信)は天和二年(1682)に亡くなったとされるが、13年に及ぶ質屋暮らしであった。
この事件が起きた寛文九年養子である南条元知は、陽明学徒の追放事件にあたり藩主綱利に諫言して不興をかい、永蟄居の処分を受けることになる。(10月6日)
次回はこの事件とともに南条元知(細川忠利末子)の事をご紹介する。

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旦夕覺書をお読みいただいて

2011-06-14 21:21:49 | 徒然

 いつも貴重なご教示を給わっているさいたま市のTKさまから、「旦夕覺書」をお読みいただいてコメントを頂戴した。お許しを頂き全文をご紹介する。このようにご熱心にお読みいただき、有り難いきわみである。感謝

貴blogで旦夕覺書を楽しく拝読しております。先日花--21で大坂城士「佐治頼母爲重」が登場しましたので、一寸報告申し上げます。
 
堀内傳右衞門は、親から聞いた安濃津籠城の話が余程印象的だったのでしょうか。同じく肥後文獻叢書所収の堀内傳右衞門覺書によると、吉田忠左衞門、原惣右衞門、堀部彌兵衞等が「傳右衞門殿は馬御數寄と何れも咄にて承候、馬咄可仕」と近寄ってきたのを幸い、関連して佐治の話も披露したところ「傳右衞門殿は古き事を能く御覺被成候」と褒められたそうで、ちょっと得意顔の傳右衞門が目に浮かびます。
 
ちなみに「佐治頼母(縫殿)爲重」は、近江國甲賀の士で、九歳の時に上田吉之丞の養子分になり、十一歳の時富田信高に出仕し、十四歳で知行三百石を取りました。安濃津籠城の時分は十六歳で、戰後の行賞により信高着用の具足、甲、小鞍という伊勢家作の鞍、鎧、河原毛の馬を拜領し、更に知行二百石加されましたが、翌年秋には立退きました。その後小早川秀秋に出仕し、知行八百石を取りました。小早川家絶家の後田長政に近習として出仕しましたが、五年後には遠國につき後藤又兵衞を通じて賜暇、退去しました。その後藤堂高虎に出仕の際に知行高の手違いが生じ、退去しようとした處を追々加するのでと押留められ、慶長十九年には藤堂良勝手に屬して出役して働きました。しかしその後も特に沙汰の無いまま、慶長二十年四月には舊知の後藤又兵衞の誘いを受けて大坂方となり與力二十五騎を授けられ、五月六日道明寺合戰で軍功を樹てています。その後流落して江戸柳原の町家の裏に借家して妻と二人浪居していましたが、寛永十年池田光政に知行千石で召出され、鐵炮二十挺を預かりました。明暦三年七月四日に死去し、子孫は岡山池田家中と桑名松平家中に連綿と続いています。
 
ところで、旦夕覺書の佐治のくだりは、五本關原日記と類似性があるように思えます。父の話を思い出しつつ、こうし軍記類の表記を参照にしたのかもしれませんね。
『津ノ城籠城叶ヒカタキニヨリ、冨田信州自害セントアリシ時、兒小姓差シ頼母ト云フ者申シケルハ、味方ノ兵、今ニ支テコレアリ、某シ見テ參ラント云テ出ル處ニ、敵四五キハヤ城内ニ攻入ケルヲ上田吉之丞、佐分利九之丞二人ニテサヽヘタリ、然ルトコロニ頼母來テ、鑓ニテ一人突伏ケレハ、上田、佐分利モ敵ヲ討取リケル故、是ニ支ヘラレテ敵モ左右ナク攻入ラス、カヽルトコロニ扱ヒニ成テ城ヲ渡シケリ、此時信濃守ヨリ作ノ鞍鐙ヲ佐治頼母ニ賜フ、後ニ松平新太郎光政卿ニ仕フ、縫殿ト名ヲ改ム』(五本關原日記)

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南條氏のこと--(3) 南条元信

2011-06-14 08:21:28 | 歴史

 南条元宅は嫡孫・藤八郎に跡目を継がせる意向をもって死去した。
前回も書いたように嫡子は病気であり、側室の子作十郎周辺の者が動いて元宅の意向は成就しなかった。藤八郎は家来とともに熊本を離れ、豊前の細川家を頼り三齋により召出を請けることになる。三齋の意向は「南条家は名高き家ニ付」とする。

「三千石可被下由ニテ被召抱」られ、「成長之上ニ而与五郎様御女お鍋殿を藤八郎へ被遣、五百石御知行御添被下候」とある。
「於豊前御侍帳」には頭衆として「三千石 加茂 南條左衛門元信」とある。また鍋については「五百石 なべ 廟所禅祥寺 忠興公御二男也長岡與五郎興秋女・南條大膳元信妻円乗院 大膳后改左衛門」と記す。「福岡県史・近世史料偏-細川小倉藩」所載の「日帳」によると寛永三年(1626)七月「鍋」の結婚話が記載されている。「おなへ様御祝儀ノ御使者」が「御乳人」に書状を届けた記録である。この年内に結婚したのであろう。

元信については「藤八郎名を大膳と改め、其後御国へ御供ニ而罷越唯今木下屋敷被為拝領」と「藻塩草」は記す。寛永二十年(1643)細川忠興末子勝千代(三歳)を養子とする。元信は万治三年(1660)隠居、天和二年(1682)死去した。室・鍋は元禄二年(1689)まで長生きした。

そんな中、寛文九年(1669)南條家にとっては厄年ともいえる事件が二件勃発する。
     ■南条以心事件・・・・・・以心(元信)の不可思議な事件である。
                    キリシタンと疑われたようだがこれで罪は得ていない。
                    しかしながら帰国後は竹の丸の質屋(牢)暮らしをしたという。
     ■陽明学徒追放に関し、元知の藩主綱利への諫言事件
                    綱利(甥)の怒りをかい、永蟄居となる。
回を改めてご紹介する。

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「旦夕覺書」 花--23

2011-06-14 08:14:20 | 旦夕覺書

紀伊古大納言頼宣公御制法
     父母孝行守法度へりくたり不驕人々勤家職正直を本とする事誰も存たる事なれとも■下へ可申
     聞者也
     右之通被仰出候由にて熊本にて寫置候六十二三年に成可申候 殉死御制禁之事も紀伊大納言
     頼宣公被仰上たるよし諸大名家中之證人も此時節御赦免かと覺申候 拙者覺候ても御家中よ
     り御一門にては細川刑部殿御家老衆并御城代田中左兵衛此分と覺申候 其後御法度故追腹之
     沙汰不承候 右之紀州大納言様は其刻聖賢之様に沙汰仕候

 仁 忘自恵他救危扶窮都テ於物先■觸事ニ有憐心名テ謂之仁
     他を恵み我を忘れて物ことに慈悲ある人を仁と知るへし
 義 富て不驕積テ能施■天■地凡交衆不静守謙相譲名テ謂之義
     へつらわす奢る事なく諍す慾を離れて義理をあんせよ
 禮 臣尊君子孝親兄敬老愛幼居上不悔為下不猥名テ謂之禮
     君をあふき臣を思ひて假初も高きいやしさ禮義みたすれ
 智 廣學詩文■■萬藝温故知新凡三度思■是非分■名テ謂之智 
     何事も其品々を知る人にひろく尋て他をそしるなよ
 信 心直詞正非■不行非道不興惣テ不筋内外勤行有眞名テ謂之信
     心をは直なるへしと祈るへしあしきを捨てよきに友なへ

心に物ある時は心狭躰窮屈なり物なき時は心廣體ゆたか也

心に我慢ある時は愛敬を失ふ我慢なき時は愛敬そなはる

心に欲ある時は義を思はす欲なき時は義を思ふ

心に飾ある時は偽をかまふ飾なき時は偽なし

心に奢有時は人をあなとる奢なき時は人を敬う

心に私有時は人を疑ふ私なき時は疑ふ事なし

心に誤り有時は恐る誤りなき時は恐る事なし

心に邪見有時は人をそこのふ直なる時は人をそこなはず

心に怒有時は言葉はけし怒なきき時は言葉柔なり

心に貧有時はへつろふ貧なき時はへつろふ事なし

心に堪忍なき時は事をそこのふ堪忍ある時は事とヽのふ

心に優なき時は悔事をなし優有時は悔事なし

心に自慢ある時は人の善をしらす自慢なき時は人の善を知る

心にいやしき時は願發る賤からされは願ふ事なし

心に迷ひ有時は人をとかむ迷ひなけれは咎る事なし

心に誠有事は分を安んす誠なき時は分しらす

      草々のほと/\における露の玉
         おもきはおつる人のよの中
                          八十歳
     享保九甲辰十一月十七日 堀内旦夕入道判
                堀内傳右衛門殿
                同   小傳次殿 

                 (花の巻・・了)

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南條氏のこと--(2) 南条元宅

2011-06-13 14:08:55 | 歴史

                         南條元宅のお墓(禅定寺)

 熊本における南条氏については、井上正氏の論考「南条元宅とその一族」に詳しい。

        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%B4%A8%E5%85%83%E6%B8%85

  ウイキペディアが紹介するように「小鴨元清」とも呼ばれる。南条元次(続)の弟だが、小鴨氏に養われたことによる。ここでは井上氏も引用しておられる、宮村典太の「藻塩草」42巻所載の南条氏に関する記事からご紹介しよう。

 南条左衛門尉元宅は、伯耆國羽衣之城主南条伯耆守元次の弟ニ而、数度之武功を顕はし、名高強将之由申傳候 太閤之時兄元次死去ニ而嫡子幼年ニ付、舎弟元宅後見ニ而被居候處、元宅家中之不和成騒動ニ及しを太閤聞及ひ、領地を没収せられ幼子何某江御預被成、左衛門元宅は小西攝津守へ御預ケニ而、小西より六千石賜り、客分ニ而居候由 然処慶長五年(中略)此節元宅は宇土ニ居て留守たりしが、加藤清正関東の御味方たるにより、熊本より宇土の城に発向して是を攻らる。元宅は無双の強将にて能防戦す 清正之家来三宅角左衛門と云者、数度武功有る士なりしか、此比清正公之気色を損じ換気を蒙り居たりしが竊に寄手に加わはりぬ 元宅城外に出て防戦しけるを角左衛門是を見て馳向ひ鑓を合せしが、元宅角左衛門が持ちたる鑓を打落し、角左衛門同勢に隔てられ遂に引取りぬれば、元宅たたき落せし角左衛門が鑓元宅取ぬ 此事を清正公聞給ひ強将に向ひし志を賞し勘気を許し給ふ由云傳ふ 元宅無双の強力にて常に三間柄の大身之鑓ニ而向敵を毎打倒せしと云伝 右之持鑓并三宅が鑓共に南条家に持伝しに米田家に永く伝りて今に在之 宇土落城後は清正公へ六千石ニ而被召出相勤被居しが、慶長十九年寅十月二十三日元宅病死也 禅定寺に墓在り 跡式存生中に嫡孫藤八郎(後・元信)ニ譲り度由遺言有り、嫡子勘三郎ト申ハ病身ニ付右之通ニ候処、大坂に妾腹の次男作十郎とて有りしが是を取持つ人有て、跡式を作十郎へ被下候ニ付、家来之者共不同心之段々訴訟仕候得共、不相叶ニ付、福西九郎兵衛・成海次郎兵衛なと藤八郎幼年成を介抱し肥後を立退、豊前小倉に至り右之筋を三齋公へ申上候ヘハ、南条は名高き家ニ付藤八郎へ三千石可被下由ニテ被召抱候

この藤八郎が後細川興秋女・鍋を室とすることになる。以下次回・・・

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「旦夕覺書」 花--22

2011-06-13 07:00:33 | 旦夕覺書

    寛永十五年戌寅六月廿四日  忠利公被仰出覺


               覺
一、御蔵納之儀は土免に被仰付其上にて水損日損虫喰なと候へは検見之上にて免相定所務萬事之
  儀御代官如此段々被為仰付置候上は別儀有之間敷と思召候事
一、御給人方百姓に對し非分有之間敷と思召候へ共小身成者亦は江戸上方に詰居候者しかと仕たる
  下代持申間敷候間自然所務なと仕様むさと仕候儀も可有之と思召候 自然御給人により非分成儀百
  姓に申懸候はヽ御代官御郡奉行沖津作太夫聞届其所務判之御年寄衆へ致相談埒明可申旨御意に
  て如斯被仰出と有之候はヽ百姓奢り申儀も可有之候間其段御代官頭御郡奉行江堅可申付旨御意
  之事
一、今度島原討死病死仕候跡目被遣候子供幼少にて所務成間敷と思召候間御代官より御蔵納同前に
  所務等申付物成其給人に相談候様可被申付候事
一、御國中を大方三ツにわけ御年寄衆三人にて一年代りに余の郡へ無構銘々受取之郡々を先三年萬
  事可被申候事
  右之通被仰出上は御給人之儀は不及申御代官御郡奉行にても非分之儀於有之は言上可 被仕候不
  届に極り候ハヽ其者に切腹被仰付儀斗殿様御存知被成旨御意御座候
      以上
   寛永十五年戌寅六月廿四日
                 佐渡殿
                 頼母殿
                 監物殿
                 河喜多五郎左衛門
                 椋梨半兵衛
                 沖津作太夫

・・・・・・・・・・・・・・次項は細川家のものかどうか不明である(備中なる人物の特定が出来ない)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             條々
一、民は國の本也御代官の面々常に民の辛苦を能察し飢寒等之愁無之様可被申付候事
一、國寛なる時は民奢もの也 春時は己か事業に懈り安し 諸民衣食住諸事奢なき様に可被申付候事
一、民は上へ遠き故に疑有もの也此故に上よりも亦下を疑事多し 上下疑なき様に萬事念入可申付事
一、御代官之面々常に其身を慎み費なく民の農業細に存候はヽ御取立等念を入宜敷可費申付候 惣て
  諸事手代に不任自身勤儀肝要候 然時は手代末々迄私有有間敷事
一、面々之儀は不及申手代等に至迄支配所の民私用に仕はず并金銀米銭民より借亦は借し不申様堅
  可被申付事
一、堤川除道橋等其外諸事常々心にかけ物毎不及大破時支配所へ達し可被加修理百并(ママ)姓訟論
  ヶ間敷儀有之節は軽内聞届内證にて可相済儀は依怙贔屓なく不及難儀様可被申付候事
一、面々御代官所替又は私領相渡節は銘々未進其外諸事無油断常々念を入第一御勘定所無滞様に
  可被掛心事
  右之條々堅可被相守之事
       延寶八年閏八月        備中列
                御代官中

          

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避難勧告

2011-06-12 18:11:49 | 熊本

 昨日今日と熊本はすごい降りです。現在熊本市西部と北部の20の小学校の校区に住む、6万6674世帯、15万4664人に対し、避難勧告が出されています。幸い私が住んでいるところは、市の東部の高台で心配は要らないのですが、側溝の水があふれたりしていますから、近所の水無し川も現在は大変なことになっているのでしょう。現在は小康状態ですが、明朝まで降り続くらしく、勧告を受けた皆さんは眠れぬ一夜を過ごされるのでしょう。何事もないようにただ祈るだけです。
 この時期雨が降ると、昭和28年の大水害が思い出されいやな気持ちになります。
東北地方に加えて大雨の被害がないように願うばかりです。

 追記:6/13 8:30
その後小康状態が続き、心配された状況は避けられたようです。
今日は新聞の休刊日で詳しいことは判りませんが、田んぼが冠水したり、小さな川の水があふれたりしたようです。午後からはお天気になりそうです。まずは一安心・・・・

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南條氏のこと--(1)

2011-06-12 09:41:28 | 歴史

 播磨屋さんのメールマガジン「家紋WORLDニュース48号」が送られてきたが、ここに「風雲戦国史 http://www2.harimaya.com/sengoku/ トップページのコラムを 南条氏に更新」とあった。

南條氏といえば細川興秋の娘・鍋(なべ)が南條大膳元信に嫁いでいる。興秋の室は氏家元政女であるが、興秋の没後飛鳥井中納言持信に再嫁した。鍋が誰の手に依り育てられたのか詳しいことが判らないでいる。

さて南條元信なる人物だが、細川家記は南條左衛門元次息と紹介している。残念ながらこれは間違いである。(下に記す) 元次については「東北文庫-小寺融吉の盆踊りの研究」というサイトに次のような記述が見える。

【島根と隣の山口県の岩国を中心とする南條踊は、天正年間に吉川元春が伯耆の南條元次の城をやはり歌舞に事寄せて奪つたに始まるといふ。しかし或は南條の戦死者を弔つたものかも知れぬ。これは旧藩時代に旧藩の子弟に限り稽古して、夏の夜や祝い事に踊り、最近は辛くも保存されている。紋服に袴、白鉢巻、白足袋、わらぢ、脇差に軍配を手にした姿である。いはば武士階級の盆踊といふべきものだ。】

興味深いこの記述は元次=元続であることを示唆している。

そして、元次と元信の関係は次のようになる。(細川家記を正しいとすると元信が元次の跡を継いだということも考えられるが、詳細は不明である。) 元次(元続)の弟・元宅(小鴨元清)の孫が元信である。
南條家は断絶し、女系によって受け継がれた細川興秋のDNAは米田家の血に伝えられた。

                                           
                            米田是長=====是庸・・・・・・・・・→代々家老・米田家 
                               ∥-----吟    ↑
  +---元次     細川興秋---鍋   +---伊千    ∥----是庸      
  |                  ∥----+         ∥                         
  +---元宅-------勘三郎---元信   +=====元知(細川忠利末子)

       (出典:宮村典次「藻塩草」42巻所収-南條家系)+津々堂責任編集

この元信、なかなか面白い人物である。回を重ねてご紹介する。

 武家家伝_南條氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
 南條元続 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E5%85%83%E7%B6%9A 
 南條元宅 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%B4%A8%E5%85%83%E6%B8%85

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「旦夕覺書」 花--21

2011-06-12 08:44:12 | 旦夕覺書

一、大友家の侍森迫三十郎甲の前立物三本菖蒲金にして討死の時
       命より名こそ惜けれ武士の道をは誰もかくや思はん

一、冨田信濃守知信は関ヶ原御陳泰平の後被召出伊與國宇和島にて拾貮萬石賜也 或説曰勢州の城
  にて籠城かなひかたく信濃守自害せんとありし時上田吉之允か児小姓佐治頼母と云者信濃守前に
  来たり申けるは味方の言今に支て罷在候 某見て参らんと出し處に敵四五騎早城に責入けるを上田
  吉之允佐分利九之允二人にて支へたる所に佐治も馳付鑓にて一人突伏る かヽる所に扱に成城渡
  す 此時信濃守より佐治に作の鞍鐙を賜る 頼母は後に松平新太郎光政家に来て佐治縫殿と號領地
  線石にて足軽預りたると也
       此佐分利は當御家の佐分利也 佐治頼母事は老父三盛度々咄候被申候

一、難波戦記の内浅野采女正も城兵と刃を交進んつ進れつ討つ討れつ鋒より火烟を出し汗馬に息を不
  継せ戦ける 采女正か家人牧野金彌 或は數野とも有 一番に首を取て来る所に山城半左衛門も浅野内匠頭殿
   内奥野将監祖父也
首を持参す 金彌是を見て我取所の首は二番也 某は二の備成故に本陳に近し依之
  早く来る山城は先手に在て本陳に遠し是故に遅く来ると申遣れは浅野大に是を感し先手の一番首
  を半左衛門二の備の一番首は金彌也と定られ正月具足の祝にも左右の上座を替々勤けり 又是に似
  たる事有り昨六日の合戦に松平陸奥守政宗か軍士浦倉仁兵衛と云者一番に鑓を取て来る所に歩
  行立の侍も同く首持参せり浦倉是を見て渠か取處一番首也其故は某は馬にて馳来る此者は歩行な
  れは遅参せり 敵を討時刻においては足下一番也遅速大に相違あれは論するにたらすとそ申ける
  歩卒聞も不敢譬騎馬にても歩行にても本陣へ来る事一番なれは是を實の一番首なりと申す 政宗大
  に是を感し馬上の一番首は浦倉仁兵衛歩行立の一番首は汝也とて二人を被褒美ける 惣して義士
  の振舞は斯こそ有へけれと皆人大に感じける 青山伯耆守忠利組大久保玄蕃允武功あり此度先登に
  進む 御帰陳有て御加恩給り駿府の御城代を命す 行年九拾余にて卒す

一、名将の曰敵國へ押寄明日辰の刻城責と云にて有へし心懸る者は宵より可参諸人より勝れたるは
  日の暮さる内に可参そ萬事如此ならされは諸人の中より人に先立事は難成もの也 

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6月26日発売「武将幽齋と信長ー細川家古文書から」

2011-06-11 11:03:00 | 書籍・読書

 熊本日日新聞に昨年4月~10月まで連載された記事を元に、新たに編集されてこの度出版されることになった。A5版・112頁 1,260円

【肥後細川家の初代幽齋、織田信長の天下布武、豊臣秀吉の天下統一、徳川家康の天下泰平、その実現に至る道筋で、幽齋は大きな役割を果たします。信長が幽齋らにあてた文書を読み解き、細川家が戦乱の時代を生き残っていく過程をたどります。秀吉や家康、明智光秀の書状も紹介(オールカラー)】 本日付熊本日日新聞の「熊日の本」の紹介コーナーから

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職業?(道楽)病

2011-06-11 09:29:35 | 徒然

 ここ一週間ばかり寝ていると右の肩が猛烈に痛むことがある。これが不思議に昼の間には出ないのだが、ただ右肩を廻すことが出来ない。寝ると右手のやり場所に苦労する。腹の上に手を置くと右ひじが下がって、肩に猛烈な痛みが襲う。右ひじが下がらないようにタオルケットで調整するという有様である。勢い左肩を下にすることが多くなるが、知らず知らずに寝返りを打つと、ぎゃっ・・と叫び声を上げたくなるほどの、痛烈な痛みがくる。故に睡眠不足気味で、昼間イスにもたれてうとうとしている。
 一日数時間PCでタイピングしているせいだろう事は良くわかっている。余り「痛い痛い」をいうと、奥方からお叱りを蒙るのは当然のことで、ひたすら口をつぐんで耐えている。

 最近奥方はiPadを購入さかんに使い方の勉強をしているが、「疲れる、肩がこる」とやかましい。少しはこちらを理解してくれるといいのだが、どうやら裏目で「こんなに疲れるものを、長時間やれば肩がこるのは当たり前」だから、大概にしろというご託宣である。

 最近はネタ切れ状態ではありますし、程々に致しましょう・・・・・・・・・・

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