埼玉在住の柏木様から、次の二件についてメールを頂戴した。お許しを頂きご紹介する。毎々的確な情報のご提供を頂き感謝申上げる。
「郡宗保は死んでいなかった・・?」に寄せて
■郡主馬の諱ですが、私が確認できているのは「宗保」のみです。
・天正十五年二月十七日付下達文書署名に、郡十右衞門尉宗保[花押]とあります(光明寺文書)。
・慶長二年九月二十八日従五位下主馬首に叙任せられと時の口宣案に、豊臣宗保とあります(柳原家記録)。
・実家である伊丹家の記録や子孫の郡家の記録にも、諱は宗保で、戒名は梅林宗保居士です。
■「良列」の諱は、寛文十二年の序をもつ「難波戦記」以降のものではないでしょうか。
さしずめ眞田左衞門佐信繁の諱幸村が創作されたのと同じようなもので、
以後の俗書ではむしろ「良列」が一般的になっているように見受けられます(くずし字の読み損ないによる思われる良州、良利を含む。)。
■なお、西国落人詮索に関する細川家国元への示達文書の「主馬ニかきらす落人・・・」につきましては、
前段の文脈から、大坂方の大野主馬を指しているものと存じますがいかがでしょうか。同様の示達が島津家でも発せられております。
「大名物・山の井肩衝」に寄せて
■司馬遼太郎氏も、「豪傑と小壺」で、稻津忠兵衞の不器用な生き方を滑稽味と物哀しさを織り交ぜて描いておられますね。
■ちなみに、薄田泣菫の生れた備中国浅口郡は慶長年間豐臣秀頼家臣の給地が多数存在していました。
そんな背景もあってか、薄田泣菫の家も大坂落人伝承を持っているようです。
■すなわち、家祖薄田次郎兵衞尉兼房は薄田隼人正の弟で、大坂落城の砌、大坂今津屋與三右衞門の持舟で備中国浅口郡連島村に落来り、
三宅甚右衞門を称し、その子孫は酒造業や医業を営み、後代薄田氏に復したそうです(薄田泣菫考、公孫樹下にたちて薄田泣菫評伝)。
なお、同家の伝承では、俗書と同じく本国山城・橘氏となっておりますが、私は薄田氏を本国美濃・藤原氏と推定しております。