今日は昼食後に散歩に出る。昨日の7キロ散歩が応えて、足の付け根が痛い。
いつものコースを回って帰ると、途端に大きなくしゃみ、これが一時間ほど続いた後こんどは鼻水がとめどもない。
以来5時間ほどティッシュの山を作っている。
そういえばTVで「花粉症情報」をやっていることを思い出した。今年は例年に比べると少ないと言っていたように思うが・・・
すでに鼻の脇が赤くなってきた。これはまずい。15日は史談会の例会だというのに「赤鼻」は大いにまずい。
明日からはちゃんとマスクをして出かけることにします。
今日は早めに布団に入って養生に努めましょう。
(寛永三年七月)晦日
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| 晦日
| (恵重)
|一、志水伯耆方ゟ、同新丞へ被上せ候状壱つ請取、御舟頭田辺長介へ相渡、上せ申候、
|一、佐藤安右衛門・春木金大夫ゟノ御請被仕候書、御舟頭田辺長介ニ上せ申候、
| (兼英)
佐々江勘左衛門吉 |一、佐々江勘左衛門尉儀、吉田右民ア衛門佐殿ゟ御かまい有之ニ付、御扶持被放候間、御借米・借銀なと
田兼英ノ構ニヨリ | (坂崎成政) (永良) (続敦行)
召放 | 有之ハ、取立可申旨、清左衛門尉・長兵衛・平右衛門方ゟ被申越候奉書之旨、主馬方罷上られ候
| ニ付、村井内蔵助方へ申渡候、御扶持を被放と迄候而、他国可仕との儀不被仰越候間、他国之儀
| は重而 御意次第ニ可被仕旨、申渡候事
|一、佐々江勘左衛門御扶持被放候間、彼知行所代官可被申付旨、栗野伝介方へ申渡候事、
| (長元)
小笠原長元借米 |一、小笠原民ア少殿御貸米を宇佐郡ニ而御かり候処ニ、滞米少有之を、御かし米之内を以引取被申
| 候、此段立 御耳ニ、滞申米之内ニ而候ハヽ、相渡可申候、右之目録ニ外之候ハヽ、御立候筈ニ
| (米田是門) (矢野)
| 候間、改可申由、與右衛門殿・利斎へ申渡候事、
船頭ノ法度 |一、御舟頭之儀、米田與右衛門■殿を以理りを申付、此以後御法度/\立候様ニと、堅申定相済候叓、
| (典通ヵ)
稲葉典通使者ノ賄 |一、当春、稲葉殿ゟ之御使者渡部主殿被帰候時、道中賄之儀念を入可申旨、被仰出ニ付、泊々へ状
ノ算用ノ切紙 | (規矩郡、加藤ヵ) (元明)
| を遣、賄候処ニ、切帋有之付、算用とをり不申由、御代官佐兵衛被申ニ付、住江甚兵衛方へ切帋
| 遣候也、
| (宗珠院)
|一、おくまゟそうしゅいん殿へのふミ、御舟頭長介ニ相渡、上せ申候也、
|一、長崎ゟ、飛脚両人、御鉄炮衆桑原主殿与ノ坂本喜介・山内勘兵衛与白石五右衛門、今日参候事、
|一、式ア少輔殿へ、長崎ゟ之返事、持せ進之候事、
| (辰珍)
|一、津川四郎右衛門殿へ、小物や庄右衛門ゟ参候状相渡候事、
間紹甫ヨリ来状 |一、米田與右衛門殿へ、紹甫ゟ之状相渡候事、
| (元五)
|一、志水伯耆殿へ、小物や庄右衛門ゟ参候状相届候事、
肥前筑前筑後日や |一、長崎へ遣候飛脚両人罷帰候、路次/\ノ日やけノ様子相たつね申候処ニ、肥前・筑前路次ふちハ
けノ様子 | 少も日ニやけ不申、殊外能御座候、乍去、所/\ノものニ様子たつね申候ヘハ、路次ふちはよく
| 候へ共、いなか/\殊外日ニやけ申候由申候、筑後ノ内ハ、道ふちも日ニやけ申由、申候也、
|
細川幽齋 細川三齋
元和六年の末、綿考輯録の表現を借りると三斎は「以之外ニ御煩い」となり、隠居を決意している。
そんな時期三齋は愛娘・万(烏丸光賢室)の見舞状に対して、お礼の書状を送っている。
返書の内容は誠に穏やかであり、病を克服し、家督を譲ることを決意した安ど感がそうさせたのであろうか。
しかし「気力もなく、文をみることも書くこともなり候はぬ」なかで、かなり長文を認めている。
最末尾には「われ/\はうすになり候て、つらを見申候へは、そのまゝゆうさいにてわれなからもきもをつふし申候、かどう(歌道)をしらぬゆうさいと御おもひ候へく候」と、顔つきがすっかり父・幽齋に似てきたと冗談がましい一文が微笑ましい。時に三斎58歳であり、83歳の天寿を全うすることになる。
翌年元和七年一月七日忠利が襲封した。
その書状の日付は十二月二十五日だが、家督云々については触れていないが、書状を十助なる者に託しており、「くハしく申候」と記している。
寛永五年には隠居領・中津に烏丸光賢と室・まんや子供たち、又吉田兼治室(三斎妹・伊也)などが訪れ、花火などを催して好々爺ぶりを発揮している。おだやかな時期である。
どうしても知りたいことが有って、図書館に出かける。昼食後自転車にしようか徒歩にしようかと迷ったが、自転車では帰りの坂道が難儀するので徒歩でスタート。
距離はほとんど散歩コースと同じ3.5キロほど、行は45分、帰りは50分、風は冷たいがよい天気で大汗をかいて帰宅した。
都合7キロ、散歩を二回したことになる。
図書館ではコピーを数枚取り、調べ物で本を30分ほど館内で閲覧、二冊の本を借りて帰ったので少々疲れてしまった。
シャワーをして一段落している所だ。ふくらはぎがパンパンしているから、今晩は又こむら返りが起こるかもしれない。
コーヒーをやめて水を大いに飲んでおこう。
78爺まだまだ捨てたものではありません・・・
昨日「再び手木之者」を書いたところコメントを頂いた。
手木の者→手木を使う者。捕吏。とりて。とコトバンクにありました。
やはり岡っ引き=手先と同じように普段はサイドビジネスをしていて、用があると本業をやるんでしょうかね。
これと直接関係ありませんが、三斎も学んだ天下無雙流捕手の道具を見ると縄以外は暗器のようで、手に収まる
サイズの武器を使う者という意味にも思えました。
また、琉球の「手(ティー)」は空手の祖先という説があります。空手と違うのは暗器も使うところです。
これは誠に有難いご教示であった。随分以前「同心とか岡っ引き」に該当するようなものが熊本に居たのかという質問を受けて以来の難題であった。
藩政時代の地図を見ると、現在の水道町二丁目、肥後銀行水道町支店の道を入った処に「手木之者」と書かれた一角がある。つまり「手木之者」がここに詰めていたことが判る。
手木之者の定義としては、「熊本近世用語事典」に「目明し。手木とは十手のことで、熊本藩では「目明し」という呼名より手木之者と呼ばれていたようだ。」(出典:熊本日々新聞社・新歴史摘録34 森田誠一編)とあるが、先のご教示から天下無雙流捕手について調べると、これは逮捕術を体得した専門の武家であることが伺える。
「目明し」というよりも「同心」に近いニュアンスがある。
「天下無雙流捕手」については「肥後武道史」に若干の記述があり、代々の師範の流れが記されている。
又、ウイキペディアの「天下無雙流(櫻場系)」をみると、唯一熊本に伝えられた武術であることが判る。
今回のご教示によって、「手木之者」のイメージが大いに膨らんだ。
江戸に於ける「岡っ引き」とは大いにイメージが異なることが理解できる。
但し、これを職種と考えると、穿鑿方にでも所属していたのか、今後の研究課題である。
(寛永三年七月)廿九日
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| 廿九日
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大安寺住持曲事人 |一、式ア少輔殿ゟ御使ニて候、大安寺ゟ書状参候、各へも以書状可申候へ共、式アニ心得候て、申候
ノ詫言ニ付申来ル | へとの儀候、来八月 幽齋様御吊上方ニて被 仰付候、就夫、爰元曲事人籠者共、銘々こまかに
幽齋法事ニツキ入 | 書付被下候ハヽ、上方ニて御わひ事仕見可申候間、こまかに目録を仕立、可差上由被仰越候、得
牢者等詫言ノ目録 | 其意申候、御返事申候事
鍋へ南条元信トノ |一、おなへ様御祝儀ノ御使者として、岡六左衛門被罷下候ニ
祝儀ノ使者 |
御乳人 | 一、おなへ殿へ之 御書幷おちの人・おひかし殿へ大塚長庵ゟノ状壱つ
| 御 (快寛)
中津郡奉行 | 一、中津郡奉行佐方少左衛門・宮部久三郎へ之 御書壱通、則持せ遣候也、
| 一、我々へ被成下 御書壱通、
| 右之分被持下候
| (領)
具足三十領下着 |一、御具足三十両被持下候事
| (長氏)
|一、平野九郎右衛門ゟ留守へ、しふかミつゝミ弐つ・状壱つ参候を、則留守居ノ少右衛門ニ、松之
| 御丸ニ而渡之也、
下毛築城簗奉行 |一、下毛郡やな奉行ニ遣候歩ノ松山小右衛門・渡辺加太夫、右同前ニ人付遣事、
宇佐郡簗奉行 |一、宇佐やな奉行ニ遣候歩ノ寺戸仁兵衛・速水長三郎ニ、御鉄炮衆弐人、御長柄衆五人相添遣候
| 事
大道打ノ刀 |一、伊藤武左衛門尉、成田與平次方ゟ、大道打之御こし物弐こし、幷さめつぶ上せ被申候事、
鮫粒 |
| (元五)
|一、御鍋様へ、従 殿様被進之 御書、岡六左衛門預ケ被置候を、志水伯耆所ニ被居候付、伯耆小性
| (大塚) (乳)
| 三輪佐源太を取ニ被越候間、 御書相渡候事、付り、長庵所ゟ、御なべ殿御ちの人へ参候状を遣
| 候事、
| (直正) 公儀御
幕府鉛船 |一、寺本八左衛門尉〇鉛舟之奉行之御触ニ付、被罷出候、田辺兵助ハ今日可被罷出候へ共、おこり
| をふるひ被申候故付、明日可被参由之事、
| 〃
旱損ノ目録 |一、日損之御目録、差上せ候御小早之船頭田辺長助上り候由、申来候事、
| (古祐)
|一、岡六左衛門被下候ニ、曽我喜太郎殿ゟ杉ノ箱壱つ、富田十太夫・松下掃アニ当ル箱一つ、十太夫
| 内角善右衛門ニ相渡候事、
|一、右同人熊谷九郎兵衛所ゟ宿へ、うわむしろ包壱つ参候を、持参被申候ヲ與左衛門持せ遣候也、
|一、右同人持参候、大石長右衛門所へ大石吉右衛門かたゟ銀子有之状、早川十郎兵衛ニ言伝参候也、
以前「■手木之者」を書いたが、これがどういう職種なのかずっと判らないまま今日に至っている。
今般熊本史談会で「御預人記録」を取り上げるにあたり、史料を読んでいたらこの名前が登場していた。
細川家は大石内蔵助を含め17人の赤穂浪士を預かるにあたり、大目付仙石伯耆守宅へ上下875人を派遣している。
その中に「手木之者五人」とあり、足軽や荒仕子・中間より下位に書かれている。
右の行に「提灯持之 」の文字が有るのだが、この「手木之者」に懸っているのかどうかもよく判らない。
大提灯二十張とか提灯四十張という数字も見えて、これらをだれが持つのかは明らかでない。
手木之者の職務などが判るどころか、ますます深みにはまっている。
そして、残念ながらどういう隊列で仙谷邸から白金邸へ向かったのか、当時の伊皿子の坂は現在の様にはつながっておらず、やや手前の急な坂道を上ったものと思われるがこのルートさえ定かではない。
インターネットの世界も、これには回答をしてくれないようである。
(寛永三年七月)廿七日~廿八日
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| 廿七日
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香山與助ノ規矩郡 |一、規矩郡御検地、香山與助請取被申候分、御帳迄相調候而、在郷へ被罷帰候事、
検地帳調ウ |
田川郡検見 |一、田川郡ノ検見ニ、山田市左衛門申渡候処ニ、かつ気相煩候間、誓紙を以可申上候間、替りを出シ
脚気ニ付誓紙ニテ | ■■候へとの理りニ、登城被仕候事、
替エヲ乞ウ |
| (南条元信室・細川興秋女)
鍋兼知行所未進米 |一、御鍋様・御兼様御知行所未進米之儀取立、御代払可申旨、栗野伝介へ申遣候事、
ノ取立 | (筑紫重門室・細川孝隆女)
| (河井)
鷹ノ様子報告 |一、御鷹ノ様子可申上旨、被 仰下候間、則権丞をよひ申渡候、一つ書ニ而、御鷹ノ様子可申上げと存
| 候処ニ而候間、便舟次第ニ可申上之由、権丞被申候也、
| (元五) (志水清久)
|一、御奉行衆ゟ、志水伯耆・宗加内儀・かゝ殿へ参候状、則持せ遣、相渡候也、
柘榴上納ノ触 |一、さくろ上せ可申旨、御奉書下り申候間、則御郡/\へ申触候事、
干物ノ肴 |一、干物ノ肴上せ可申との一つ書下り申候間、則金子喜左衛門方へ申渡候也、
中津蔵納旱損二万 |一、中津御蔵納三万七千石ノ内、弐萬弐千石やけ申候由候事、
二千石 |
| (山本)(渡辺)
鷹師隼落シニ人足 |一、御鷹師三蔵・三十郎与衆六人、隼おとしニ被参候付、人足可相渡候へ共、御荒仕子無之ニ付、
ヲ乞ウ | 夫銀を積可被相渡通を、財津市兵衛ニ申渡候叓、
降雨 |一、ミノ刻ゟ雨ふり、廿八日ノ卯刻迄ふり申候事、
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| 廿八日
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内検 |一、何も御内檢ニ被参候手伝衆ニ、書状相渡、今日遣候事、
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肥後落穂草に重賢公が「安否(あんぴ)はあんぷというべき」と仰ったことが記されている。
それから家中に於いてどう取り扱われたかは判らないが、これは漢音と呉音の違いらしい。
博学の殿様にお仕えする人たちは、あたふたさせられる一方、大いに見識豊かになったことであろう。
[語誌]
室町末期ではローマ字書きのキリシタン文献や多くの節用集で「あんぷ」とし、江戸後期の節用集の多くやヘボン「和英語林集成」の諸版は「あんひ(ぴ)」とするところから、近世に「あんぷ」から「あんぴ」へと語形が交替したと考えられる。ただし、すでに室町期に「あんひ(ぴ)」もあるし、明治一〇年頃の「小学読本字引」やその後の「言海」などには「あんふ(ぷ)」も残る。
熊本城の裏鬼門にあたる横手地区には御寺が集中している。毎年2月15日には今でも幾つかの御寺で涅槃像の御開帳が行われる。
2016年の高麗門外・横手地区 涅槃絵図拝観ツアーの映像
毎年200人以上の方々が訪れて賑わいを見せる。
この行事の歴史は古く、「歳序雑話」には次のように記載されている。
十五日諸寺涅槃ノ像ヲ挂ケ、老若男女是ニ到リテ礼拝ヲ為ス、蘭若之群集過ル此日ニ莫シ、浮図淫スル非ズト雖モ、
多ク来タリ而之ヲ見ル者多ク有リ、彼岸此月ニ在リ、七日ヲ以テ結願ト為ス、諸寺ノ高僧碩学之比丘、法談ヲ述べ教
於旦那ヲ化ス、
かっては多くの御寺様がかかわって来られた。(妙永寺、妙立寺、正立寺、長国寺、本覚寺、安国寺、禅定寺)
今年は四ケ寺が御開帳と聞くが如何だろう。
原文に触れるシリーズ第二弾として、何度か読み下しをご紹介した「志方半兵衛言上之覚」を取り上げます。
天草島原の乱に於ける八代衆の働きぶりを、京に在る三齋公に志方半兵衛が記した報告書はその都度飛脚を以て届けられました。
本藩の働きとは別に、その働きぶりは幕府の認めるところとなったが、その恩賞は本藩から別途に扱われ、三斎公死後八代を離れる人が出たことにも影響している。
(寛永三年七月)廿四日~廿六日
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| 廿四日
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薬師薬猟 |一、御くすしいしん、薬種をとらせニ近所之在郷へ被参候ニ付、御馬壱疋申付遣候、馬之儀ハ上田忠
| 左衛門ニ申渡候也、
| (河田)
鋤簾ノ要 |一、しよれん四つ五つ入候由、八右衛門所ゟ申来候、不破平太夫・中山左次右衛門へ、才覚候て、遣
普請惣奉行 | 候へと申遣候事、
| (ママ)
水替桶 |一、水かへ候用ニおけノ事、八右衛門方ゟ申来候間、上林甚介与手前ニ有之除掃おけ遣候へと申付候
| 事、
明神米ノ滞納 |一、築城郡明神米、赤尾甚右衛門百性前ニ滞米有之ニ付、御郡奉行由断ニ而候間、御郡奉行手前ゟわ
| きまえ被立候へと、申渡候事、
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| 廿五日
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|一、京都ゟ富田彦右衛門尉被罷下、 御書被成下候を持参被仕候事、
|一、加藤新兵衛、御郡へよひニ遣、被罷帰、今朝登城被仕候事、
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三斎清水寺法印へ |一、三斎様ゟ清水寺法印ニ成被遣 御書幷仁喜斎ニ成被遣 御書、同宿をよひ、相渡、御印それ/\
ノ書状 | ニ相渡候帳ニ、判形をさせ置候也、
仁喜斎ヘノ書状 |
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| 廿六日
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惣談 |一、御家老衆・與右衛門殿・利斎何も御談合之儀候而、頼母佐殿へ御より合被成候、御横衆も三人共
| ニ被罷出候事、
泰勝院ニテ光寿院 |一、今朝泰勝院ニて、御法事御座候事、
法事 |
|一、栗野伝介、御郡ゟ被罷帰候事、
扶持方貸 |一、詰小早ニて、上方へ御ふちかたかしの儀、可得 御諚ため差上せ申候、御船頭ハ石井又左衛門
| 也、此御船頭京へ直ニ参候へと申付候也、
| (鬼籠) 小倉町
小倉町人鬼籠村ノ |一、国東郡木子村ノ惣吉〇五右衛門出入之儀ニ付、池内源助を遣、双方之口を聞届、書物を取、被
百性ト女敵討出入 | (ママ)
詮索 | 帰候而、御年寄衆・與右衛門殿・利斎ニ頼母佐殿ニ被懸御目候処ニ、五右衛門おち申上ハ、加為
| (さく脱)
| 其分候、併五右衛門書物を御町奉行へ上ヶ候儀は、二左衛門上ヶ候由候間、今一往せん可然由
| 候間而二左衛門口を、與右衛門殿ゟ、御聞せ可被成由、御年寄衆被 仰渡候事、
| 〃
ご存知歌川広重の「日本橋・朝の景」である。「お江戸日本橋七つ立ち・・・」と唱歌にあるように、大名衆は木戸が開く七つ時に日本橋を通って(通らない人もあるが)それぞれの国へ帰って行った。日本橋の木戸は「北詰」にあったといわれるから、この浮世絵では手前が北であり、開かれた木戸が見えている。もっとも木戸は江戸の町中に設けられているから、七つ時に日本橋を抜けるというのは少々怪しく思えるが、これは歌詞にそうあるだけで、いろいろ詮索することでもなかろう。
私は今月の史談会で「御預人記録」を取り上げることにしているのだが、記録によると浪士たちは七つ時に討ち入ったとされるが、やはり木戸の開く時間が影響しているのだろうか。
討ち入りの日は旧暦の14日(夜が明けると15日)だから、七つ時とはいえ満月に近い月が足元を照らしていたのだろう。
討ち入り後は吉良邸の裏手にある回向院に向かい寺内に入り休憩することを予定していたが、門番の僧に「寺法」により明六つにならないと門を開けることができないと断わられている。都合の良い逃げ口上だが、幕府からのお咎めがあることを恐れての事である。
浪士たちは約12~13キロの距離を2時間ほどで歩き泉岳寺に到着している。私は最近このスピードを体感しようと早足で散歩をしてみたが、この距離をこのスピードで歩くことの凄さを実感している。
浪士たちは慎重にコースを見極めながら引き上げているが、幾つもの橋を渡らなければならない。絵図を携えていたであろうが、すいすいと歩くのは難儀であったろう。途中では大名屋敷の門前で誰何されたり、上杉家の追っ手を心配しながらの歩行である。
随分以前の事だが、「泉岳寺の手前には高輪大木戸があって、役人は文句を言わなかったのか」という話を聞いたことが有る。ご尤もな話ではあるが、「やんやの喝さいを受ける浪士たちを押しとどめることなどできなかったのだろう」という話になり、なんとなく合点したことが有った。
これは、大きな認識不足で、高輪大木戸が築造されたのは、この事件の8年後の宝永7年の話であった。
中央義士会監修の「赤穂義士の引揚げ」を読んでいるが、内蔵助の事前の行き届いた調べや、行動に伴う規範といったものが四十七人の浪士一人/\に行きわたっていることに感動すら覚える。町人ならずとも、幕府の役人や諸大名その他多くの武士たちに感動を与えらことがうなずける。
史談会で取り上げるには、少々俗っぽい話になるなと思っていたが、まさに武士道に立脚した素晴らしい行動をいかに間違いなくお伝えできるかを考えている。
あと一週間後の事である。